これは困った事なのか?

日々のニュースに興味が持てない

毎日、いろいろなことが起きる。事故や事件には連続性がないが、政治や経済には連続性がある。しかし、選挙と同じく、自分という最低単位の一人と「国家」や、ましては世界では、どこにも連続性も、接続性もない。

乖離があり過ぎて、マクロ的に興味が持てなくなっている。さて、ここからどうするかである。

補足:テレビとフィッシング詐欺の関係

昔、神田の駅前の瀟洒なビルでやっている金貸しの事務所を訪ねたことがあった。彼等は、「街金」とか「やくざ」ではなく、スーツを着たビジネスマンであった。その彼らの仕事は、スパムメールを何百万通と送信するのが仕事で、その文面にもよるのだろうけれど、確率的に何件かの反応が取れると言っていた。

なまじ、認知機能が働く相手には説得が必要になりコストがかかるのだそうだ。いまだに「オレオレ詐欺」が横行していることからしても、彼らの商売は成立しているようだ。

民放テレビも同じ構造である。はてもなくつまらない番組を放送するのは、はてもなくつまらない内容を、そうとも思えずに見つめる認知機能が低下した大衆を対象にしている。よって、神田の金貸し同様に、認知機能が低下した視聴者にスポンサーが提供する宣伝を流すことで、売上貢献ができるとしている。

健康食品のメーカー曰く、テレビで宣伝するとしないとで売り上げが随分違うとのこと。ということは、科学的根拠を持たない「健康食品(コンドロイチンとかグルコサミン、ヒアルロンサンなどなど)」をテレビの宣伝の通りに買うということは、やはり認知機能が低下している層を狙っているとしか考えられない。

補足:新聞は買うから読む

新聞はゴミになるからとっくの昔にやめた。読むとしても数ページしか読まない。それもお金を出しているから読んでいるだけで、やめても全く困らないし、困ったこともない。

Newsweekがそうだった。買っているときは、あまり興味がない記事も、もったいないから読んでいたが、図書館から借りるようになったら、興味がない記事は読まなくなった。

そのうち、Newsweekの記事を読むことの意味を考えたら、世界の話なんて自分には「無意味」と気が付き、読むこと自体やめた。

補足:ネットの記事やYouTube動画

ネットでニュースを見ればいいともいうけれど、これも、最近はあまり見ない。

10分を超える動画は、geminiに要約してもらって文字にして読んでいる。長い動画(9~10分超)は見ない。

「これからは動画だ」などというのは大ウソで、単なる時間の無駄。特に、素人が画像編集技術だけで作ったような動画は、あざといだけで鬱陶しいのが多すぎるから発信者の名称で判定するようにしている。

補足:選挙とか、政治とか

石丸伸二さんの「再生の道」には頑張ってほしいけれど、開票と同時に小池都知事を選んだ、300万もの認知機能が低下した有権者が選ぶことであって、選ばれる人間の資質は、都議会との関連ではさほどの要素とはなっていない。

優秀を自認する連中が、どぶ板で長屋のおかみさんと握手すれば得票になるのが「政治」であり「選挙」である。「そんなことはどうでもいいこと」と思うと、さっぱりする。

今日の主張

難病になったことで仲のいいフリして、特段合う必要がない人たちとも会わずに済むようになった(断る理由ができた)ことは歓迎すべきこと。人間関係なども、ほとんどが必要性があるわけでもない。

やることもなく、会う人もなく、さて、どうするか。これは「困った」ことなのか、「歓迎」すべきことなのか。

おそらくは「歓迎」すべきことで、思惟の中に沈潜せよという諭しなのだと思えば得心がいく。今さら何かを学んだところで何の役にも立たない。

もっともっと若いうちから、「世のため、ヒトのため」として生きてくるべきだった。自分の人生なのだから「自分のため」だなんて考えは、その時点で政治家のような老成した考えだったということ。

荘子が言う「無為を為す」。これが、世のためになんの役にも立たなかった人間の末路として最適な生き方だということのようだ。