国宝発見

産経新聞、2024年10月10日の記事によると、

大津市の三井寺(園城寺)が所蔵する国宝密教図像「五部心観」の幕末の写本と考えられていた法明院本(同寺所蔵)の巻物が、西暦1000年前後(平安時代中期)に制作されたものだった

藤原道長が娘、彰子の入内(999年)の際、皇子誕生を祈って宮廷絵師に描かせたと発見者の広島大学の安嶋紀昭教授は推定している。絵師の筆運びが1000年前後のもので、和様の仏教絵画と認定されている。

国宝密教図像「五部心観」
智証大師自筆の奥書があり、それによると大師が入唐中の大中九年(855)、 唐の都長安で、伝法阿闍梨法全の所持していたものを、法全自らが 円珍に授けたもの ということで国宝に指定されている。

143尊の仏像画で5つの曼荼羅を構成しているそうだ。

法明院本は、長らく江戸幕末の写本とされてきたものが、今回の調査で平安時代のものと推定された。国宝指定されている1巻は完本であるが、2巻は巻頭から3分の1がかけている「前欠本」で、推定12世紀の写本とされているが、今回発見された法明院本は、前欠本より古いことが推定されることとなった。

発見のきっかけは、国宝を画像にするのは好ましくないことから幕末の写本を画像化して学会に発表しようとしたところ、運筆が江戸時代のものではないことに教授が気が付いたそうだ。

さらに、143尊の仏像のうち2尊の下段にだけ、「到底絵師の筆とは思われない、たどたどしい運筆」が確認されたとのこと。誰が、その2尊を書き加えたのかがロマンになる。

まず、その写本は1000年ころに作られたとするなら、命じたのは藤原道長が推定される。彰子の入内(999年)の際、皇子誕生を祈って宮廷絵師に描かせたと考えられる。そこに2尊を書き加えたとするなら、道長の姉の藤原詮子(一条天皇の母)ではないかと推理することもできる。

姉が書き加えたか、はたまた、道長が書き加えたかは、今となっては確定できないが、顕微鏡でも紙の繊維が確認されないほど薄く丈夫な最高級紙で、ほとんど劣化していないとのことだから、相当な権力者が介在していることは間違いがない。

なぜ、円珍が855年に持ち帰ったことが記録されていて、12世紀にその写本が作られたのに、10世紀に、しかも時の権力者である道長が関わって作らせた写本の記録が残されていないのかも不思議なことだ。写本を作らせたのが道長ではない可能性も少なからずあるとはいえ、最高級の和紙を手に入れられるとすれば、ごく限られてくる。

枕草子だって、藤原伊周が定子に紙の束をプレゼントして、それを定子が清少納言に、「この紙を何に使おうか」と声を掛けたら清少納言は「枕にしましょう」といい、「それは面白い」と定子が清少納言にその紙をあげたことから「枕草子」の名前になったそうな。

奈良平安時代には紙がそれくらい貴重であったわけだから、「顕微鏡でも紙の繊維が確認されないほど薄く丈夫な最高級紙」となれば、相当な権力者じゃなければ手にすることは出来なかっただろうことは想像に難くない。

2尊を書き加えたのが「定子命」の一条天皇であるとは、流れからして考えられない。彰子であることは否定できない気もする。