大鏡:其16《帝紀-後語り》

【世継】『帝王の御次第は申さでもありぬべけれど、入道殿下の御栄花もなにによりひらけたまふぞと思へば、まづ帝・后の御有様を申すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木の実をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言へば、

これを受けて繁樹が答えるという掛け合いになる。

世継の翁が言うには「天皇の順序などは取り立てて話すほどのこともないが道長の栄華の大元に皇室が有ることを知るために話をした」
「魚の子はたくさん生まれるが一人前の魚になるのは難しい。菴羅(あんら)という木はたくさんの花が咲くが果実を結ぶのはほんの僅かである」
「天下の数ある大臣・公卿のなかでも道長公ばかりは世にも稀な方である。将来においてもこのように栄えることはきっと無いであろう」

良い鏡は磨かなくても常にくもることがない。これこそが藤原氏一族であると世継が言いたいことなのである。古鏡は古いから価値があるのではなく、新たな歴史を映すものでもある。

国初から今に至るまで左大臣は30人、右大臣は57人、内大臣は12人。太政大臣は7人。しかし、存命中の太政大臣はめったにいなかった(死んだ後で賜ることがたまにあった)。

37代孝徳天皇注1のときに左右大臣、内大臣が設けられた。右大臣に蘇我山田石川麿注2が任ぜられたが東宮(中大兄皇子)によって殺害された。

このときの内大臣は中臣鎌子で、39代天智天皇は第2皇子の大友皇子を太政大臣に、初めて任じた。41代持統天皇も高市皇子を太政大臣に任じた。天武天皇の皇子でも有る。

文徳天皇(母は藤原順子で冬嗣の娘、女御が藤原明子で良房の娘)の末年に藤原良房が太政大臣になる。54歳であった。大臣として摂政にもなった。良房から公季まで太政大臣が11人続いた。

本来であれば、藤原氏の話は大職冠藤原鎌足から始めるべきところ、それではあまりに古い話になってしまうので天皇も文徳天皇から始めたのだから、藤原氏も冬嗣から始めることとする。

ということから、藤原冬嗣から物語が始まる。帝紀は、藤原を説明するための前段の話でしかないので、さらっとしか書かれていない。

注1孝徳天皇:敏達天皇の孫である茅渟王の子であり、皇極・斉明天皇の同母弟である。皇極・斉明天皇は、天智・天武天皇の母である。蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが「日本書紀」に書かれている。

姉である皇極天皇のときに「乙巳の変」が起き、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を殺害している。そこで、皇極は息子である中大兄皇子に譲位しようとするが辞退され、弟の軽皇子が践祚して孝徳天皇となる。ここで、中臣鎌足が「内大臣」になる。ちなみに、中大兄皇子は皇太子。

「大化の改新」とは、乙巳の変の事ではなく、元号を「大化」とし孝徳天皇による改革を行っている。難波京に遷都するものの、皇太子である中大兄皇子らが「倭京」から離れることを反対し、貴族たちも倭京に戻ってしまい、孝徳天皇は失意の中で死去する。

「倭京」については諸説あるが、飛鳥に置かれた宮都を含む大和にあった宮都のこと。

注2蘇我倉山田石川麻呂:大化5年(649年)3月に、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言された。この讒言を信じた(?)中大兄皇子は孝徳天皇に報告し、孝徳は2度、石川麻呂のもとに派遣して事の虚実を問わせた。

石川麻呂は使者に対して、直接孝徳に陳弁したいと答えたところ、孝徳により派遣された蘇我日向と穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲した。長男の興志は士卒を集めて防ぐことを主張したが、結局石川麻呂は妻子8人と共に山田寺で自害した。

藤原氏のお家芸でもある「他紙排斥」の原点はここにあった。