大鏡:其18
われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすとふ 安見児得たり
《私は安見児を得た。誰であっても手に入れることができないという安見児を得たぞ!》
万葉集に載っている鎌足の歌。采女の安見児を大王天智から払い下げてもらった喜びを歌にしている。采女とは、各地の豪族が各地の美女を大王に献上した女性たちで、采女に手を出すと死罪になったという。
「大鏡」では、その安見児は大王天智との子を妊娠していて、生まれたのが「史・不比等」であったとしている。多くの学者は、この説を取らない(証拠がないから)が、後の異様ともいえる出世や、王族の見努王(ミヌオウ)と結婚していた県犬養美千代が見努王と別れて不比等の妻になることなども、その線からすれば考えられることでもある。鎌足死去の時点で「史(ふひと)」は11歳だった。「藤原」姓は不比等のみが使えてイトコたちは「中臣」のままであった。
大王天智の子なら「壬申の乱」で生き残れるのも不思議なことではあるが、天智系であることは間違いがなく、天武時代には不比等は冷や飯を食わされていた。
=以降、「大王」は「天皇」の表記にする=
県犬養美千代は、元明天皇の女官であったとされ、推定、元明の長男である軽王(後の文武天皇)の乳母だったと考えられている。
不比等の長女である藤原宮子は文武天皇の妃になる。宮子の妹が光明子で聖武天皇の妃になる。姉妹でありながら、聖武天皇は文武天皇と宮子の子だから、宮子は光明子の「姉」であり「実母」である。
不比等は持統天皇の長男である草壁王を支え、正倉院には草壁王から不比等に伝えられた黒作縣佩刀が残されている。
717年、左大臣の死去により不比等が政権第一人者となり、房前(次男で藤原北家の祖)を参議にさせることで藤原から二人の議政官が出ることとなった。
宮子も光明子も藤原一族(つまり、民間)の出であったため「皇后」になれなかったが、不比等の4人の息子が結託して729年に長屋王を除き、光明子を晴れて「皇后」にすることができた。
不比等は大宝律令を編纂したが、日本の実勢に合わせた改訂として養老律令を作ろうとしたが中途で死去し、藤原仲麻呂(南家)によって完成する。
日本の国の原型を作ったのは不比等と持統天皇と言える。 一つには「律令」という法体系を作ったこと。それに基づく天皇制、太政天皇制を確立したこと。それと、藤原氏の永続化の布石を打ったことを挙げることができる。