大鏡:其19

嵯峨天皇52代)の兄である平城天皇51代)は「薬子の変」において主体的な役割をし、父である桓武天皇の逆鱗にも触れ、嵯峨天皇の時代が来る。

冬嗣は嵯峨天皇の信任が厚く異様なスピードで昇進していく。嵯峨天皇の后である高津内親王を廃妃して橘嘉智子を立后させることに冬嗣が尽力したことで覚えがめでたかったという話もある。

その辺の話については、全く情報を持っていない。高津内親王が生んだ男児は精神に異常があるという、いつもの手口で彼女(橘嘉智子)が生んだ正良親王(のちの仁明天皇)だけが皇位継承資格を持つ唯一の皇子となっていた。

橘嘉智子は、贈太政大臣(死んでから太政大臣になった)・橘清友の娘であるとはいえ、家来の娘であることはどうにかできるものではなかったので、光明子を皇后にした方法を踏襲した。

wikiによれば、橘嘉智子の姉が、冬嗣の夫人の弟の夫人であったという縁によって後押しされたと書かれているが真偽は不明。そんな簡単なことで皇后がきまるなら皇室典範など意味を持たなくなってしまう。

橘嘉智子は県犬養美千代の血縁であり、県犬養美千代の夫が藤原不比等であったことなどから異様な昇進に影響を与えた可能性も否定できない。

823年に嵯峨天皇が弟の淳和天皇53代)に譲位する。冬嗣の長男である藤原良房と嵯峨天皇の娘・源潔姫が結婚をし、冬嗣の娘である藤原順子が嵯峨天皇の皇子に入内し、皇子は後に仁明天皇54代)になる。

良房は、嵯峨天皇の皇女である源潔姫を妻に迎える。天皇の娘が臣下に降家することは禁じられていたが潔姫は臣籍降下していたため規定外のことではあったが、前代未聞のことでもあった。

良房との間に生まれたのは、後に文徳天皇女御となった明子ただ1人であり、他に妻を迎えられず後嗣に恵まれなかった良房は甥(兄の長良の子)の基経を猶子とした。

良房の妹の順子が仁明天皇との間に道康親王(後の文徳天皇)を生むと良房は恒貞皇太子を除けて道康親王を皇位に付けようと考える。

危険を感じた淳和天皇と恒貞皇太子は退位を願い出るが嵯峨上皇に慰留されていたが嵯峨上皇が崩御すると、皇太子を東国に移そうと画策するも計画は漏れて恒貞皇太子は廃太子される。

その計画に関わったとされた橘逸成(はやなり)も伊豆へ流される道中死亡する。 橘逸成は空海・嵯峨天皇に並ぶ三筆として書に秀でていた。この一件を「承和の変(842)」といい、藤原氏による最初の他氏排斥事件である。

866年、応天門が焼失するという事件が起き、犯人捜しの最中に清和天皇から藤原良房が正式に摂政を宣下される。これが「人臣最初の摂政」となる。