太宰治と新井白石

太宰治の「晩年」という本を読んでいたら、「地球図」問短編があった。主人公は「シロオテ」という宣教師でロオマンの人だった。ヤアパンニアに伝道するよう言いつけられたのは1700年の事だった。

屋久島から3里の会場に船が見えたが南を指して疾行していったが、屋久島の恋泊村にシロオテが登場する。シロオテは村の役人に見つかられ長崎に護送される。阿蘭陀の通詞は言葉が通じなかった。そこで江戸に送られる。

取り調べにあたったのが新井白石であった。シロオテは江戸小日向にあるキリシタン屋敷に投獄され、そこで新井白石は取り調べをする。その当時、幕府が持っていた世界地図は明が作ったもので、シロオテはその地図を見て声をたてて笑ってしまった。

白石は幕府が持っている万国図が辱められて事を気にかけたが、もっと古い地図がキリシタン屋敷にあることを聞きつけ、その地図をもとにシロオテがどこから来たのかを問うた。シロオテはコンパスを使ってバンコクの様々な話を語って聞かせた。

白石は、シロオテから聞いた話を手帳に書きつけた。

白石は将軍に3つの策を権限した。

上策:彼を本国に返す
中策:囚人として捉えて置く
下策:誅する

将軍は中策を選んだが、シロオテは屋敷の奴婢である長助とはるに法を授けたとして折檻され牢死した。結果として下策と同じだった。

この話は『「西洋紀聞」における新井白石とシドッチ』で取り上げた。文京区小日向1丁目23番地で3体の遺骨が見つかる。この地は、江戸切支丹屋敷があった場所であった。

この遺骨を国立科学博物館でDNA調査などを行って1体はシドッチであることが判明した。他の2体は、シドッチによって改宗した「長助とはる」であることが推定された。

新井白石は、尋問を4回にわたって行った記録を「西洋紀聞」に残している。新井白石が書き残した「西洋紀聞」を通して、後には幕府の蘭学容認へとつながっていく。

ここにも、文明開化があった。それを太宰治が小説にしているが、それには意図があった。

これは諷刺に非ず、格言に非ず、一篇のかなしき物語にすぎず、されど、わが若き二十代の讀者よ、諸君はこの物語讀了ののち、この國いまだ頑迷にして、よき通事ひとり、好學の白石ひとりなきことを覺悟せざるべからず。
「われら血まなこの態になれば、彼等いよいよ笑ひさざめき、才子よ、化け物よ、もしくはピエロよ、と呼稱す。人は、けつして人を嘲ふべきものではないのだけれど。」

江戸時代、そして戦前まで権力によって「言論弾圧」は日常の事であった。弾圧したのは権力者とその手先(特に警察や軍隊)。神輿を担いだのはメディア。

そして令和の今は、メディアが率先して権力におもねて、忖度というお先棒を担いでいる。