室町の王権
室町時代を「王権」という観点から見てみると、いろいろな動きがあった。平安時代は、まさに藤原氏が王権を蹂躙していたが、白河天皇が登場することで摂関政治から院政へと移っていった。
白河天皇が退位し、孫の鳥羽天皇も上皇になったが、実質は白河上皇が実権を握っていた。この時点で「天皇」は「治天」という国王になるためのつなぎポストになっていた。
1221年に天皇家が鎌倉幕府と対決するに至り、北条義時・泰時によって後鳥羽、順徳、土御門の三上皇は島流しになり、仲恭天皇は廃され後堀河天皇になり、後鳥羽の後を後高倉院が治天になった。
ここまでしていても、北条は天皇家を残した。
南朝に光巌、光明、崇光の三上皇と廃太子直仁を幽閉されると、北朝は苦肉の策として後伏見上皇の女御「広義門院(光厳、光明天皇の母)」を「治天の君」にし、後光巌を治天の権威を使って践祚する。称徳天皇以来、600年ぶりの女性国王が登場した。
後円融が天皇になったのは14歳で義満と同い年であった。義満の母と後円融の母は姉妹であったことから、義満は天皇と従弟の関係にあった。義満は明に朝貢するために、天皇の臣下では明が受け入れないので「日本国王源道義」として明に冊封を願い出た。そのことで莫大な貿易の利益を得ることができたが、息子の義持がやめてしまう。
後小松の生母である通陽門院巌子(藤原巌子)は、後円融からミネウチにされることや、巌子の父からの願い出に嫌がらせをいったり、義満からの正月儀式の費用を断ったり、挙句に切腹未遂を起こすなどをして治天の権威を失墜させた。
その巌子が死去したタイミングで義満の正妻を後小松天皇の准三后に宣下した。これで義満は後小松天皇の准上皇となり、義持の弟である義嗣を皇位継承者にする予定だったとされる。
義満は武力だけで天下を安定的に運営することの難しさを後醍醐などの動きを見て理解していた。また、律令的官制体制を破壊することの混乱も想定していた。よって、足利が武力王と祭祀王を掌握すれば将来的には天皇制を解体し国王とすることも可能であると考えていたという説もある。
ところが、1407年、急死し朝廷は義満に「太政天皇」の尊号を決定するが幕府(足利義持)は辞退する。
ここが、「万世一系」の最大の危機と言える。
義満は、天皇家を廃絶して新たな国王として足利王権を樹立しようとまではしていない。守護大名とのパワーバランス、寺社とのパワーバランス、実質的には崩壊していた律令制度ではあるが日本文化的に根差していた形式性との対峙、そして皇統・公卿とのパワーバランスを勘案したうえで、皇統を残し、その皇統を手中にしようとしていたと考えられる。
信長は一向一揆との調停を天皇に依頼している。信長は神を目指したという説もあるが具体的に皇統という王権を簒奪しようとした痕跡は残っていない。秀吉はむしろ天皇権威を利用して天下統一を図ろうとしている。 家康は、義満に近いものがあり江戸幕府になってから天皇管理強化を打ち出し政治的関与を封殺した。