小野篁が生きた時代

小野篁(たかむら)は実在した。生年は802年で、死没が852年。

六国史では、「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」に含まれる時代を生きた。「日本後記」は全40巻のうち10巻しか現存しておらず、「続日本後記」含めた数回しか篁の記載がない。

ただし、「文徳実録」には、篁の「薨伝(こうでん)」が書かれている。「薨伝」とは三位以上の位階を持つ人物が死去した時に書かれる伝記様の物である。ちなみに四位、五位の位階の人物に書かれる伝記は「卒伝」と言われる。

小野岑守の息子。父が陸奥守として陸奥国に一緒に下り、篁は乗馬に夢中になり学問をしようとしなかった。そのことを嵯峨天皇が「武士にでもなるつもりなのか」と嘆いた。そこで篁は学問に身を入れて文章生(もんじょうしょう)の試験を受け合格した。832年に従五位下になる。

太宰少弐に任命さるが淳和天皇(嵯峨天皇の弟)が大宰府に赴任することを許さなかった。仁明天皇の時代になると篁は東宮学士に任命さる。

838年、篁は遣唐副使に任命されるが、第1船が遣唐大使で、第2船が遣唐副使の舟になる予定であったが、第1船に浸水があったので第2船を第1船にして、浸水した第1船を篁の船にしようとしたことに篁は抗議をした。

839年、仁明天皇は勅命に逆らったとして篁の官位を取り上げて庶民にしてしまい、隠岐に流した。

篁の書く漢詩は天下に並ぶ者がいないほどの第一人者だったし、書も王義之に匹敵するほどと言われるものであったという。841年には、仁明天皇の計らいで失脚前の位階(従五位下)を授けられた。

篁が任命された東宮学士の東宮は、後の文徳天皇になる。ちなみに、仁明天皇の女御となった藤原順子は冬嗣の娘であった。その藤原順子が生んだ子が文徳天皇となり、この女御になるのが、順子の兄の良房の娘の藤原明子という流れができることで、藤原家の隆盛の原点となる。

846年に厄介な法律論争が発生し篁も介入していき、解決させる。847年には参議に任命され公卿(三位以上のこと)となる。

篁の伸長は6尺2寸(186センチ)あったという。嘘か本当かは不明。

篁のお墓の隣が紫式部のお墓。これには、それなりのエピソードがある。