成果主義人事は失敗するのか?

富士通では1993年に成果主義を導入して失敗をしている。年功序列のぬるま湯につかっている幹部にとっては、頭から冷や水を掛けられるようなもので、うまくいくという仮説を立てていることに無理があるのは自明だったような気がする。

役所に成果主義を持ち込めば半分の公務員は辞職・転職し、残りの8割は降格になるだろう。富士通で失敗したということは、民間企業の大企業である富士通においてすら、役所と体質が変わらないことを示している。

政治家が「能力もない(石丸伸二氏の弁による)」のにイスにしがみつくのは、無能でも高禄をはめる利権があるからで、これは役所のみならず、企業の昇進階段の上に上がるほどに能力と職責に乖離が生じ、そのギャップが利権化しているからに他ならない。

理想という地平を夢見て足元の現実が見えなくなることは、いずこも同じである。かつての関東軍は満州国を建国するという理想を描き、日本を地獄へと導いていった。

富士通では、成果主義の失敗から「ジョブ型人事制度」に切り替えようとして外資を参考にしようとしたところ「あなたたちのような日系企業には無理でしょう。社員が自立していないから」とにべもなかったそうだ。

ジョブ型に移行するためには「ジョブ」を明確に定義することから始めなくてはならない。かつ、そのジョブを前提に雇用するなら「JD:Job Description」が契約の前提にしなくてはならないから、年功序列・終身雇用型の人事制度にジョブ型人事制度への以降は、組織が大きいほどに簡単なことではない。

そうした富士通の成果主義の内部事情を書いた『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』という本が出ているそうだ。これは、ジョブ型に切り替える手前で、まさに成果主義で失敗したときの本のようだ。

失敗するには、それだけの原因があるわけです。組織において人事制度による失敗とは「モチベーションの低下」が最大の原因になるでしょう。逆を言えば、モチベーションを下げるためには「不公平な評価」「無能な管理職」「曖昧な目標設定」などをそろえれば十分な気がします。

何をもって「目標」とするか
ポスト(特に管理職)に応じた職責を果たしているのか
職務の定義はきちんとできているのか
評価基準の客観性は担保されているのか
能力や専門性の評価の客観的指標を作成してあるのか

このあたりが人事制度として十分に意を尽くさなければならないことになるでしょう。アメリカの映画等見ていると、組織改革するときには外部からコンサルタントチームがきて、一人ずつ呼び出して「あなたは残り」「あなたはさよなら」みたいにやっているけれど、社内の人事部ではなく外部のコンサルタント会社にやらせることで遺恨を残さないために必要なこと。

これからの企業はAIが進化していく都度にポスト対応で「Ordinary Person」は降格か退場させていかなければ、「Extraordinary  Person」に対する待遇ができなくなる。

アカデミー賞を取ったゴジラの映画で画像処理を「天才級」若手が担うことで組織が活性化したようなことをテレビでやっていた。

まさにそのようなもので、「無能な」と言えば語弊があるけれど、年功によりポジションを上げたことで相対的に無能になってしまった年寄りがはびこる社会を変えるためには、「Ordinary Person」と「Extraordinary  Person」との階層に分けていくしかないように思う。

それは単なるジョブ型雇用だけでは解決は難しく、年功を排除すると同時に不公平感のない目標設定と職務基準を明確にし、リーダー資質基準をクリアできていない管理職・幹部・経営層の降格によって、組織の活性化をしていかなければ「Extraordinary  Person」が居付かなくなり、組織として退廃していかざるを得なくなると思う。

追記

マイクロソフトとメタでは、「低パフォーマンス社員」の解雇を始めたそうだ。日本では、法律が「低パフォーマンス社員」であっても守ってくれている。

日本では考えられないとするが、欧米ではごく当たり前のこと。むしろ、日本だけが異様な雇用システムを維持していると言え、グローバル展開している企業にとっては、日本の雇用形態は「障害」となっている。

メタは全従業員の約5%、マイクロソフトは約1%を解雇する。

それができるのは、

(1)成果主義の文化が根付いている
(2)評価システムが透明である

評価システムの透明性については、欧米ではシステマチックに定期評価が行われる。そして、その評価に基づいて昇進や報酬が決まる。「低パフォーマンス社員」は早期に特定され、改善が見られなければ解雇される。

係長としては「高パフォーマンス」であったのに、課長としては「低パフォーマンス」になってしまうこともある。なぜなら、年功が職責の裏付けであることには論理的合理性がないからだ。

かつて映画などは「ビデオレンタル」があり、「DVDレンタル」になり、今ではネット配信になっている。音楽もレコードからCDになり、今ではネット配信である。

よって、「パフォーマンス」という尺度も、時代と共に変化している。

しかし、最も「パフォーマンス」を考えなければならないのは、むしろ、経営幹部の側に大きな要素があるのではないだろうか。そこを抜きにして「低パフォーマンス社員」の切り捨てをする組織が素敵だとも思えない。

一企業としては「低パフォーマンス社員」という言葉が存在する意味は分かるものの、社会で見るならば「天下り幹部」が跋扈しているような組織を率先して退場させていくことも並行して考えていくべきだ。

いつの時代も「低パフォーマンス幹部」に権力を与えている限り、改革・改善は遅々として進まない。総務省の元幹部がいつのまにかフジテレビの取り締まりになっていたが「これは天下りではない」と詭弁を弄する。どういう手順を取ろうが、歴然とした天下りであり、これが天下りではないとするルールに瑕疵がある。

ニベ

「にべ」は、スズキ目ニベ科の海産魚であるニベの浮き袋(鰾)を指している。ニベの浮き袋は粘り気が強いことから、人と人との親密さにたとえられた。

よって、「にべもない」とは、親密ではない、そっけないという意味だそうだ。