日米開戦と経済《1》

1927年 南京事件
1928年 済南事件、張作霖爆殺
1930(昭和5)年 昭和恐慌
1931(昭和6)年 満州事変、満州国建国
石原莞爾は昭和恐慌の中で米国は動けないと判断した。
1937(昭和12)年 日中戦争勃発
高橋財政により織物の輸出急増がイギリスとの間で貿易摩擦を起こしていた。
日満支経済ブロックにより香港、上海におけるイギリスの経済活動は打撃を受ける。
1939年 第二次世界大戦勃発すると排英運動が激化する
1940(昭和15)年 三国同盟
日本はイギリスをドイツに屈服させることでアメリカと講和に持ち込めると考えていた。

昭和14年、軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が、秋丸次郎中佐に経済戦の調査研究を依頼する。
秋丸は陸軍経理学校を卒業後東京帝国大学経済学部で工業経済を学ぶ。

東京経済懇談会第一回 昭和14年、畑俊六、阿南惟幾、武藤章、岩畔豪雄、岸信介、椎名悦三郎、石橋湛山などが出席。

第二次世界大戦が始まって3ヶ月。西部戦線では射撃演習程度の戦闘であるが、海上では極めて活発な経済封鎖が行われだしている。

武力戦が本格化する以前に、物資を止めるための経済戦が先行している。どの程度自給自足ができるかが戦争力を判定する要素となる。

アメリカブロック、ソ連ブロック、英帝国ブロック、独伊ブロックの4ブロックが形成されているが東亜には匹敵する経済ブロックがない。よって、日満支を一丸とする経済ブロックの確立が喫緊の課題になる。

まず、満州国の資源開発を急がなければならないという認識であった。

秋丸は東京大学で指導を受けた有沢広巳に依頼する。有沢は治安維持法(マルクス主義による運動)で検挙され保釈中であった。

昭和11年、高橋是清が暗殺され広田弘毅内閣になると軍事予算の大幅な増額が行われ財政が膨張した。多くの資源を輸入に頼る持たざる国日本が経済力を超えた軍事費支出のためには統制経済が不可避となる。

一国一党体制による事態打破が求められ、政治新体制を求めて全政党が解党し新体制運動に参加した。

新体制運の中心を担った近衛文麿は政治色を失い国民的組織として「大政翼賛会」が発足する。日本は急速に独伊日かより三国同盟へと進んでいく。昭和15年、日独伊三国軍事同盟が成立。米国は屑鉄の対日禁輸を実施。

秋丸機関の研究の眼目は、戦時体制下にある各国経済の脆弱点を究明し最弱点を把握すると共に、我が国の経済戦力の自給度を見極めること。

日中戦争に対してどれくらいまで戦争に耐えられるかという課題に対して、結論は倍は不可ということであった。戦力以前に国民生活が成り立たなくなる。

昭和16年時点の判断では、2年以内の短期決戦で対ソ戦を回避し得れば対南方武力行使は概ね可能。ただし、その後の対英米長期戦遂行には大きなる危険を伴うという判断であった。

戦時下の経済は、経済は軍需品供給のためだけではなく、
 戦線を支える支柱
 武力を再建する地盤
 国民生活の基礎
経済に対する余力が戦争における最重要な手段となる。

一国の戦争能力として潜在的戦争能力の中でも経済力が最も重要となる。

戦争において経済が敵にとっての最大の攻撃目標となる。同盟を組む場合の相手の条件は最弱点を相補できることが重要なポイントになる。

出典:「経済学者たちの日米開戦」 牧野邦昭著]