本を読んでも利口にはならない
年末なので、掃除を兼ねて整理をした。「読書会」の仲間に入れてもらっているので、それなりに本を読み、まとめ方を工夫してきた。
変遷があり、Wordにまとめていた時期があり、手書きにした時期があり、カードにした時期があり、いまはWordのアウトライン機能を駆使してまとめている。
今のやり方としては、本を読みながら、ともかく「写経」をしていく。写経する段階で自分の考えをコメントしたり、他の情報を調べたり、今はやりの生成AIに訊ねたりしながら「写経」をしていく。
「生物と非生物のあいだ」という本の「写経」はA4で49ページになった。「平安貴族の心得」はA4で43ページになった。
これを読書会において使用する6~7ページにまとめていく。そのために3回も4回も「写経」を読み込んでいく。これだと、少しは身につくような感じがするけれど、実際は全く違う。
というのは、年末なので、特にプリントアウトの整理をすると「こんな本読んだっけ」から「この本は確かに読んだ」ぐらいの間でしかなく、内容までしっかりインプットされている本は残念ながら1冊もなかった。
つまり、ご飯は食べれば栄養を吸い取って、カスを輩出するという実に有効な仕組みで生命を維持してくれている。翻って読書は、栄養分を吸収もできず、かといって排出するべき残滓すらも微塵も残っていない。
つまりは、知識にしろ教養にしろ、何ら身についていないことが明らかになった。
ビジネスパーソンにとっての教養とは、「問いを立て」「答えを模索し」「決断する」力だそうだ。知識を自分の行動様式や思考様式のレベルまで身体化できるかどうか、つまり「身体知」にできるかどうかだそうだ。
自分が興味関心あって、自ら求めた書籍なのに、なぜ、「身体化」できないのかが不思議なことのように思うけれど、少なくとも「身体化」するためには、多くの本を読むのではなく、フィットする本を繰り返し読むことが不可欠である。
ということは、ひたすら前に進もうとする読書会では、数をこなすだけで「身体化」することは難しいように思うようになった。
緒方洪庵の適塾では、「会読」という書籍の読み方によって塾生の能力を向上させていたという。このことは、重要な視点を提供しているが、とはいえ、ベースには個の能力(学問への適正)と意欲(向上心)は不可欠である。