「枕草子」が描いた世界《其の05》
32段の「小白川といふ所は」には、たくさんの登場人物が出てきます。小一条の大将殿のお屋敷が主なる舞台になります。この大将とは藤原済時のことです。この藤原済時に関しては「大鏡」にもエピソードがいくつかあって面白いのですが、清少納言は、そんなことには目もくれずに、藤原佐理(すけまさ)や藤原義懐に触れている。
藤原佐理は、小野道風・藤原行成と共に三跡として名を残している能書家。「大鏡」にもエピソードがいくつか書かれているけれど、そんな話には清少納言は触れていない。藤原義懐に関しては、兄の挙賢・義孝二人が同日に亡くなっており、とくに義孝については亡くなる日のことが「大鏡」に記されている。その義孝の息子が佐理と同じく三蹟と言われた能書家の藤原行成になる。
藤原行成はバランス感覚の良い人で道長寄りのポジションを取りながらも藤原定子を支援していた。同時に清少納言ともかなり親しかったことが随所に書かれている。源俊賢(高明の息子)の評価はかなり高かった。
余談になるが、この源俊賢という人もバランス感覚の良かった人で、父の源高明が藤原氏の謀略で失脚したにもかかわらず、権大納言まで出世している。
行成の父である藤原義孝も「大鏡」に登場している。その光景はとても美しく描かれている。
老上達部さへ笑ひにくむを、ききも入れず、答もせで狹がり出づれば、權中納言「ややまかりぬるもよし」とて、うち笑ひ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑ひ出でて、人して、「五千人の中には入らせ給はぬやうもあらじ」と聞えかけて歸り出でにき。
32段
この「五千人の中には入らせ給はぬやうもあらじ」が意味するところは、「法華経」をどこまで熟知しているのがポイントになっている。その意味するところは、舎利弗(しゃりほつ)という釈尊の高弟が説法を願う。
それに応えて釈尊が「法華経」を説法しようとしたところ、5千人の出家・在家が者たちが悟ったと勘違いして退席してしまう。この5千人の思い上がりを釈尊は増上慢とし、そのようなものの退席は結構なこととし純粋なものだけが残ったという仏教的エピソードがある。
藤原義懐権中納言が、帰ろうとする清少納言を見つけて「帰るもよし」と笑いかけてきたので、清少納言は人を使わして「よもやあなたは5千人の中には入らないでしょうね」と法華経からの逸話を使って義懐に伝えたというお話。
「法華経」に精通していなければ分からないやり取りで、清少納言も藤原義懐も、この程度の教養はあったという前提になる。と同時に、そのような会話をするくらいに当時の貴族界での、清少納言の認知度もあったということになる。
貴族という身分制度がいいのか悪いのかは別として、奈良・平安時代に、貴族がいたことで古歌(主としては古今和歌集)や漢文、そして仏典の知識が貴族の教養であったことを前提として平安文化が高みに達することができていた。
32段の「小白川といふ所は」を繰り返し読むことで、当時の貴族たちの集まりをほうふつとすることができる貴重な一文である。衣装のことなども、その場にいなければ書けないくらいの描写である。