「枕草子」が描いた世界《其の08》
「清少納言集」というのがあって、自らが書いたものではなく鎌倉中期に成立したとされているようです。和歌が31首あるものと42首あるものがあって、いずれも宮内庁が所有している。
和歌も清少納言が詠んだかは不明で、確かに、いくつかを見る限りでは味わいに乏しいものもあるようですが、そもそも和歌の味わい自体もわかりはしなくなって久しい今日この頃です。
今昔物語の巻第28の6に「歌読元輔加茂祭渡一条大路語第六」に結構長めの話が載っています。ようは、賀茂祭の奉幣使を務めたおりに、馬がつまずいて元輔が落馬した。その折に冠が取れてしまった。その元輔の頭は禿げ頭で、そこに夕日が差してキラキラと輝いていた。
家来が冠をかぶるように手渡すのを静止して公達に対して、ほかにも冠を落とした大臣、中納言、中将らの名を上げて「笑うべきものでもない」と戒めてから冠をかぶった。「其の時に此れを見る人、諸心に笑い罵りけり」となる。家来が「早く冠を付ければいいのに」というと「斯く道理を云聞かせたらばこそ、後々には此の公達は笑わざらめ。さらずば、口賢き公達は永く笑わむものぞ」といって行列に戻った。
「此の元輔は、馴れ者の、物おかしく云いて人笑わするを役と為る翁にてなむ有りければ、斯くも面無く云也けり、となむ語り伝えたるとや」とあります。
969年、62歳で従五位下河内権守、974年周防守として受領になる。980年には従五位上。986年79歳にして肥後守として再び受領になる。
『後撰和歌集』を編纂した梨壺の五人のひとりとして、40代の村上朝から名声高く、歌人として特殊な地位を得ていた。藤原公任による『三十六歌仙』や、藤原定家の『百人一首』に選ばれるとともに、『拾遺和歌集』(49首)以下の勅撰和歌集に106首が入集するなど、『二十一代集』の著名作者として重視すべき歌人の地位にある。
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こういう人が清少納言の父親であったわけで、こうした精神を清少納言は受け継いでいたし、貴族としての身分はさほどではないものの、受領としての資産は結構あったでしょうし、何よりも歌人としてはかなり有名であったわけです。
元輔が 後といはるる 君しもや 今宵の歌に はづれてはをる
あの歌人元輔の子と言われるあなたが、今宵の歌会に加わらずにいるのですね
と中宮定子に言われて、清少納言は、
その人の 後といはれぬ 身なりせば 今宵の歌を まづぞよままし
もし、私がその元輔の子といわれない身であったなら、
今宵の歌会では真っ先に詠んだことでしょうに
清原元輔は、藤原実頼に呼ばれて歌を献上したり屏風歌を奉じている。その年に大納言であった藤原伊尹にも呼ばれて歌を詠んでいる。伊尹の妹の安子は村上天皇の中宮で冷泉天皇、円融天皇の母となるひとで、この人にも多くのエピソードが「大鏡」に残されている。
つまり、清原家が貴族として生き残るためには「歌」しかなかった。
ちなみに、忠平の兄が時平で、その父である基経の実の兄が国経で、その国経の物語が谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」である。