権利と利権
英語の辞書を調べると「利権」も「権利」も「rights」と出てきます。
日本語の辞書では「利権」は「利益をえる権利」で、「権利」は「自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力」となっています。「権利」には濁ったニュアンスがありませんが、「利権」というといささか濁った印象はぬぐえません。
最近のニュースで「JASRAC(日本音楽著作権協会)」という利権団体が音楽教室で使う楽曲に著作権を主張して最高裁で敗訴しました。
バーを経営しているオーナーがCDを買ってきてお店でかけていると著作権料が発生するとのことです。
「2000年1月1日に著作権法が改正になり、バー、スナック、居酒屋、レストランなどで、CD、レコード、テープ、DVDなどの録音物によるBGMを流しているお店にも支払い義務が発生するようになった」とのことです。
バーのマスターがお店の行き返りにiTunesで楽曲を再生するのは料金が発生しませんが、そのiTunesをお店で再生するとなると料金が発生するわけです。浪花節であろうが浪曲であろうが、フルトベングラー指揮する交響曲であろうが、月額費用がお店の面積に応じた費用が発生するのだそうです。
誰のところに、どのように配分されるのかなんて全く分かり様がないのに、料金だけは決まっていて、法律で徴収が許されているという、まさに「利権ビジネス」の最たるものと思います。
いったい誰のための法律なのか?
おそらく正解の「1」は官僚の天下りで、「2」は団体から献金を受ける政治家の為でしょう。日本の保守体質は、利権構造の上に政治が安座しており、その政治を支えることで官僚の利権を好き勝手に作れることに直結しています。
音楽教室で楽曲を教えるのに先生が使う分はお金を払わなければならなくなったようです。それは教えることで金銭を得ているから営利目的と言うことになります。それからすれば私学なども営利目的であるゆえになんらかの吸い上げがあってしかるべきとなります。
このような「権利」に「利権」を作って非合法なのがヤクザでしたが、それを合法にしたのが「著作権」だと思います。
国語のテストで使う小説の一部に対しても、理科や社会の教科書や参考書などで使う写真や図版にも、事細かに著作権の根が張り巡らされています。
著作者にとっては「著作権の協会」という団体がお金をむしり取って振り込んでくれるので単に依頼しておけばそれでいいわけです。団体は法的権利を主張してお金を集めてきて「経費」を差し引いて著者者に残りを配分すれば、取られる人を除いてハッピーなわけです。
実にうまい合法的カツアゲのような仕組みです。
昔、浅草の歩道に「〇」が書かれていて、その「〇」は夜の客引きが立ってもいい場所で、ヤクザがその「〇」に利権を持っていて客引きを立たせる店から「〇」の料金を徴収していたのだと思います。歩道にペンキで書いた「〇」がヤクザに収入を与えていたわけで、お店で流す音楽も、歩道の「〇」と同じことになります。
「自作曲を歌うたび「使用料」を払う必要が…… 『歴史に残る名曲』56曲の著作権を1500万円で手放したビートルズの後悔」と言う記事がNewsweekに掲載されていました。著作者でさえ、著作権者に楽曲の使用料を払うことになるのが利権ビジネスということのようです。
ついでを言うとオリンピックは「IOC」の、F1は「FIA」の、オートバイレースは「DORNA」の利権になっています。すべて興行には利権があり、単に合法か非合法化の違いでしかなく、やっていることはヤクザとほぼ同じです。