歌や詩の持つ価値
中国には「詩経」というものがあった。全305篇からなる中国最古の詩篇。儒教の経典である経書の一つに数えられる。もとは単に「詩」だったものが宋代(960~1279年)になって「詩経」という名になった。後漢以降宋代までは、毛氏の伝えた「毛詩」という名で呼ばれていた。
原型は、西周の初期(紀元前11世紀)から東周の初期(紀元前7世紀)の頃に作られたものであり、原作者は、男・女、農民・貴族・兵士・猟師といった幅広い人々であるとされる。
日本では文字が使われるようになるのが500年代で、平安文学が開花するのが1000年前後になるが、それでも農民や猟師が詩を書くようにはなっていない。つまり、文字と紙が庶民の手に渡ってはいなかった。
奈良時代の防人が作ったとされる「歌」が万葉集に残されており、東国の若者の歌が多数収録されているというが、どうやって「歌」の形式を学び、どうやって「文字」として残したのかはわからない。
日本で「詩経」が伝わったのは「毛詩」とされた時代のこと。天平時代には唐の文化が大量に流入してきているから、そのあたりに「毛詩」も伝わったと考えられる。
儒家の経典として大きな権威を持ち、中国の支配層を形成する士大夫層の基本的な教養として、漢代から近世に至るまでさまざまに学ばれ、さまざまな解釈が生まれてきた。
「詩経」が305篇になったのは孔子が選別してまとめたという説もあるが真実は不明。
周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)のはじめには「采詩の官」という役人がいて、土地土地の歌謡を採取して皇帝に献上し、皇帝はその歌謡を見て各地の風俗や政治の状況を知り、統治に役立てたという説がある。奈良時代の「風土記」も、おそらくはそのような視点から作られたと考えられる。
「毛詩」の序文に、
詩は志の之く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。情、中に動きて言に形はる。之を言ひて足らず。故に之を嗟嘆す。之を嗟嘆して足らず。故に之を永歌す。之を永歌して足らず。知らず手の舞ひ、足の踏む。
心に在るものを「志」といい、「詩」は志の求めるものの表現になる。それを言葉にするから「詩」になる。それを「嗟嘆」して「詠歌」にすると、知らないうちに舞うようになる。
「嗟嘆」は「なげく」と訳されるけれど、「思わず発する」というニュアンスと思う。
つまり、心の思うが如くに言葉となるが、形式にする必要があり、型に則って「歌」にしても、思いはとても足りていないから、知らず知らずのうちに踊り出す というのが「詩」や「歌」の原点になるらしい。
見たままを写真にすることはできない。しかし、見たままは記憶でしかない。写真という形式にすることで記録にすることができるが、見たままの感動にはとても覚束ない。嗟嘆することもできない。そこで見たままではなく志のままに描くことに絵画の原点があるようなものに近い。
そういえば平安貴族は、どういう場合かは忘れたけれど天皇の前で舞を舞うことがあったようで、そうした一連のことも「詩経」に通じているのかもしれない。