正しい戦略とは何だったのか

秦郁彦の意見

41年時点で日米開戦不可避とすれば南方資源を確保しインド洋に進出しイギリスを弱体化させるのは最善の策

東条英機の弁(昭和20年2月16日)

開戦前に、わが海軍の実力に関する判断を誤った。わが攻勢は印度洋に向かうべきであった。独ソ和平斡旋のチャンスもあった。根本的には、戦略で解決できる問題ではなかった。

佐藤賢了の意見(昭和16年11月6日) 日本とドイツ

印度洋で日本とドイツが連携することが必要であった。そのためには、

①日本が南方を占領する

②ドイツがスエズ運河を占領し中東に進出する

事が必要であった。

日独がアメリカをどうするのかを明確に検討し、いかにアメリカ国民の戦意を破砕するかの目的を共有することができなかった。

ドイツと日本の利害

ドイツはソ連と激戦中。主要敵はソ連。

日本にとっては主要敵の第一は英国、第二が米国。ソ連とは日ソ中立条約を結んでいた。

ドイツが英国の経済力を削ぐためにスエズへ進撃していれば日独協調が具現化できた。

1942年1月18日、日独伊軍事協定

イギリス上陸を求める日本、ソ連参戦を求めるドイツ。協定の対象は英米であることを明確にすることを日本は求めたがドイツは無視した。ドイツと日本が英米と戦うために必要なのがシベリア鉄道であった。

結局、日独の物資輸送や交換物資は喜望峰周りの潜水艦に依存するという極めて非効率な方法に頼ることとなった。

石炭の液化技術を供与することをドイツが認めたのは1944年3月のことであった。

1942年2月ドイツの国防最高司令部作戦部長から対ソ戦に重点を置かざるを得ないとの説明があり、日本の司令部から、日中戦争の経験から独ソ戦は深入りすべきではないと返信。

ドイツ内部でも攻撃正面を中東にし、ソ連と講和すべきと言う意見があったが、ヒトラーはソ連打倒に固執した。

同盟を結んだ割には利害が一致していなかった。敵を共有化することができなかった。双方の国益を主張するだけであった。

陸軍と海軍の戦略不一致

陸軍はアメリカと直接戦う戦略を考えていなかった。

開戦時に日本が想定していたのはイギリスを屈服させることで間接的にアメリカと講和を結べると考えていた。海軍はアメリカ海軍が日本に近づいてきた際に迎え撃つ、日本海海戦のような「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」の戦略では石油が枯渇していく。待つことはできずに真珠湾への攻撃になった。

中村良三(海軍大将)の考え(昭和17年1月号『時局雑誌』)

「大破せり」は、案外早く復活する。事実、真珠湾で大破下戦艦8のうち6隻は戦列に復帰している。

中村はこの時点で、アメリカの空母機動部隊による日本本土空襲の危険性を指摘しており、空襲に対する準備を対策しておかなければならないとしている。

結果としてインド洋だけに関心を払うことができない状態になってしまった。

武村忠雄の論説(「時局雑誌」昭和17年「1月号)

英米の弱点は海上輸送量にある。アジアの物資を英国に送れなくすれば英国にとって致命的打撃となる。

イギリスはアメリカに、日本の空母部隊を太平洋に向ける作戦を要請し、1942年4月にドーリットル空襲が実施され、急遽実行されたミッドウェー作戦で海軍は空母4隻を失った。

では、インド洋に進出していれば勝機はあったかというと、日本とドイツがアジア攻略で連携できてもドイツの自給体制を維持することはできず、ドイツから見ても大東亜圏から見ても経済の補完関係は成立しなかった。

陸軍にとって、太平洋戦争直前においても米領フィリピンの攻略以外に想定していなかった。一途にドイツの必勝を信じる以外にない状態に追い込まれていった。

当初、南方作戦に投入された兵力は全体の2割で8割は中国・対ソ戦のために配置されていた。

大本営陸軍部は冬季間に南方作戦を終えたのち、昭和17年夏季以降に対ソ戦を行おうとしていた。

田中新一作戦部長の考え

田中は、長期自給体制を確立するために南方の資源を確保し、そののち、再度対ソ武力行使を行い、ドイツと共にソ連を攻撃して崩壊させ、ドイツをイギリスに向かわせようと考えていた。

昭和7年末に田中は東条とガダルカナル島をめぐる戦いをめぐって衝突し更迭される。陸軍教育総監が教育・訓練の重点を対ソ戦から対米戦闘に転換するのは昭和18年9月からであり、陸軍大学校での教育が対米戦法に切り替えられたのは昭和19年のことであった。

これは昭和18年末に昭和天皇が陸軍大学校の卒業式に行啓したときに侍従武官長に「いまだに対ソ戦教育をしているのはどうか」と下問したことによる。

結局は、海軍はアメリカ海軍、陸軍はソ連陸軍を仮想的とする従来からの思考から抜けだすことができず、統一的な戦略をもたないまま太平洋戦争に突入していった。