死刑のはんこ押した時だけニュースになる法務大臣
この方が法務大臣の時に、お昼のニュースで死刑の執行が流れると、「あっ、お昼のニュースになりたくてハンコを押した」と思う人が大半になりました。
ちなみに、死刑囚は2019年に112人だったそうですが、2022年には106人になっています。この3年間に増えた数は知りませんが、6人減っているのは、法務大臣がお昼のニュースになりたかったからなのでしょう。ちなみに令和2年で無期懲役が1,744人だそうです。
「愚かな総理を生み出したのは、からっぽの民衆だ」という意見もあるようですが、愚かな私は、まして1国の総理を「愚か」などとは僭越すぎて口にするのもはばかられます。
かの三島由紀夫さんは「日本では一夜にして天皇主義者が民主主義者に豹変する。価値を貫く構えがなく、上と横を見てポジション取りをする」というようなことを言っていたようです。明治維新も同様で「尊王攘夷」だったはずなのに「尊王欧米歓迎」に一瞬でなりました。
徳川が独裁を敷いていたため、欧米の文明から甚だしく遅れてしまいましたが、欧米の文明が必ずしもいいわけでもないでしょう。が。結局は「経済」を無視したため幕府は借金で崩壊したわけです。
今の日本も借金で成り立っている部分があり、債権と国民の資産がたっぷりあるからといっていつまでも債務を増やせるわけではないことはイギリスのトラスさんの失脚劇を見ても、ポピュリズムは危険やなぁ~という印象を持たざるを得ませんでした。
オリンピックと言えば「電通」。単なる広告会社が、なぜ、オリンピックで中抜き、贈収賄で君臨するようになるのかと言えば「天下り」と「中抜き」、ありていにいえば官民一体となった「利権」を容認する(というよりは積極的に利権を生んでいく)構造があるからにすぎません。
「岩盤規制改革」を成長戦略としていたはずの総理は、お友達に獣医学部の利権を献上しただけでした。総理大臣と言えども規制改革ができないということは、総理大臣よりも偉い人がいるということになります。それはおそらく「官僚」なのでしょう。
リーダーにはリーダーとしての資質が不可欠なのは当たり前で、束ねる規模が大きくなるほどにカリスマがなければまとめることは出来ないと思います。それは「知性」だけでも「経験」だけでも「腕力」だけでもだめで、これらが総合されるだけでもダメで、「雰囲気」や「発信力」や「時代背景」がなければ、到底一国の首班など勤まるはずもありません。
そんなことを考えもせず、「なりた~い!」だけで総理大臣でも法務大臣でも経済産業大臣でも、あるいは与党の政調会長にでもなれてしまうところに、今の日本の政治が持つ、致命的な欠陥が潜んでいる気がすると言うと、大いなる僭越で恐縮です。
ちなみに
ちなみに、凡愚は「死刑反対」派です。
「残酷な形だから」とか「死刑を執行する職員がかわいそうだから」とかではなく、生涯、自己の人生を見つめ、犯した犯罪と向き合うことを強いる終身禁固にするべきと考えています。
経年で考え方は変わると思います。それは成長であるかもしれないし、諦念であるかもしれないし、衰えかもしれない。残りの人生を毎日「考える」ことで、「服役」させるべきと思っています。
禁固刑というのはどういう内容の刑罰なのかは知りませんが「懲役」ではないから役務はないわけです。ただし、懲役受刑者が役務に就く時間は「反省時間」として、壁に向かって正座をして自由時間とはしないことにするというのはいかがでしょうか。
被害者感情からすれば「極刑」を望むことは理解できますが、社会は当事者感情だけで構成されているようなら社会は成立しないと思います。