無能だけど、、、

有能と無能

世の中には「有能」と「無能」な人がいる。これは、金持ちと貧しい人がいるのと同じこと。運動神経がいい人と運動音痴がいるようなもの。

歌うたえば玄人よりうまい人なんて、いくらでもいる。

「芸能」の世界を見ても、実力は本人ではなく事務所やメディアにある。少なくとも日本の芸能は、そういう構造の上に「権力」や「利権」が構築されていて、芸能人は「素材」でしかないから実力も世界レベルから比べれば格段にレベルが落ちている。

日本の政治

「有能」と「無能」の最たるものが日本では「政治」になっている。政治家が「無能」でも官僚が「有能」だから、「まぁ、いいか」でずっと来た。

戦後80年なのか、明治元年から150年なのかはわからない。官僚が政治を支えてきたのは事実であったが、政治家が志を失い利権を官僚から与えられるようになってから「政治屋」になったのは、おそらく戦後のことで、1990年代の後半あたりからのように思う。

日本は、この辺りから産業構造も変わり出し、「失われた30年」などと言い出すようになってきた。技術でもイノベーションも起きなくなった。

そもそも考えてみれば、「有能」な官僚は東京大学法学部であって「文系」の皆さまである。この彼らにITとか量子とかAIの根本原理や将来性が分かるはずはない。マイナンバーだって、どこへ向かっているのかいまいち不明である。

国のリーダー

と、総論的なことを書いているけれど、国家のリーダーの挙動を見ていて2択から選ぶしかないのが現実であることが可視化されている昨今の状況である。

国のリーダーとして「やる」か「やらないか」の2択が主たる仕事だとする。

そこに政治家として、リーダーとして「有能」か「無能」かの2択を組み合わせて日米を比較してみると、

「無能」ゆえに「やりたがる」リーダー

「無能」ゆえに「なにもできない」リーダー

が、世界の経済大国のトップに君臨しているのが現時点の自由主義経済圏の現実となっている。

官僚だけの責任ではない

日本の政治は、トップの選出に国民が直接関わってはいないけれど、アメリカをみれば、直接選出制度にしても多かれ少なかれ「あのざま」に帰結する。

それでもアメリカは官僚の腐敗をイーロン・マスクが破壊しようとした。

日本では、それだけの力を政治が持つことはきっとない。その結論は「民主主義」というおためごかしにある。

無能の最たるもの。それはいつの世でも「庶民」であるということ。