知能指数と頭の良さ

IQ(知能指数)が高いと、通常は「頭がいい」ということになります。

頭がいい人とは単に知能指数が高いだけではないと、ずっと昔から思っています。というのは小学校の時に優れて頭がいい学友が何人かクラスにいて、頭がいいということはどういうことかを子供心に焼き込まれています。

まず、物事を覚える力がすごいし、覚えた記憶を引出すだけではなく、頭の中で整理し再構成をしたり、関連付けることで知識の情報価値を上げる力がある。

何かを考えなければならないときに頭脳優秀な彼らの広大な知的空間から、考えなければならないことと脈絡を持ちそうな事柄を結び付けることで新展開や新境地を脳内に作り出すことができる。つまり、引出し可能なような整理と参照能力に長けているということ。

考えたことの上に、さらに考えたことをスタックしていくことができる。このようにいくつか思考上にスタックしたことを最終的に結び付けて一つの帰結へ持っていける力があるので、新しい理論を生みだしたり、いくつかある考えの中から一番妥当そうな解を導き出すことができるわけです。

政治家などは、しゃべらせるとまともそうなことをとうとうと述べることができますが、だからといって問題解決能力が高いわけでもない人が多いじゃないですか。かといって官僚たちはどうなのかと言えば、社会主義国家が優れていることを歴史が示したことはありません。

一見、言語能力が低そうであっても、とてつもない能力を持っている人材に多く出会ってきました。逆に理屈を述べさせるとなかなかよくしゃべるのに仕事ができない人材にも多く出会ってきました。自分も典型的な後者に属します。

アメリカで第一次世界大戦のころにターマンと言う人が知能指数の高い子供を追跡して調査したのだそうですが、ノーベル賞は一人も出なかったそうです。知能指数は能力の一つの尺度ではありますが、人間の能力は「知能指数」だけでは測れないというわけです。

民主主義国家が社会主義国家より人民にとっての福音が多いのであるならば、やはり国家の運営は知能指数(エリート官僚)だけではない能力が必要だと言えそうですが、それが何かはもっと勉強しないとわかりません。

先の大戦だって参謀本部には、村一番と言われたエリートだけを集めていたそうですが、結果はあの始末でした。

きっと言えるであろうこととして官僚任せではロシアや中国の二の舞になる。どんなに知能が優秀でも官僚は権力者に忖度する(ふりをしながら心の底では馬鹿にしている)わけです。

政治主導が民主主義の原理原則であるはずですが、政治家が官僚に依存している限り民主主義の実現は、まだまだ道半ばだと言えます。それは、過日のオリンピックでも如実に示されたように、政治家にも官僚にもオリンピックすら電通に任せなければ運営ができなかった。

にもかかわらず、オリンピックを運営する能もないのに誘致した最大の理由は「利権」であることは明らかです。

こんな低レベルな政治家と官僚(と電通)に国家運営を任せている日本においては、民主主義はまだまだ借り物でしかないように思います。