「米欧回覧実記」から見えること《その2》
遣欧米使節団がサンフランシスコからワシントンへ向かったのが明治4(1872)年の12月だった。大雪のロッキー山脈を越えてソルトレーク、オマハを経てシカゴに着く。シカゴが市になったのは1837年のことで彼らが着く40年ほど前は、ただの荒れ地だった。よって、これからの40年でただの荒野がどれだけの発展をみせることか。
この急速な開拓をもたらせている原動力は一体何か?
国民の遠謀と深慮の二つながらの気力による。貨幣や財力(当時において既に巨万の富を手にした豪商、豪農がいた)だけのことではなく、カルフォルニアからイリノイに至る肥沃な土地が放置されているのは人口を含めた「物力」が足りないからだとした。
そこここに黒人がいて、元は奴隷として猟獲してこられたにもかかわらず、一部には巨万の富を築いている黒人もいるのだから、そのもとは「教育」に尽きるだろうとし、あと、20年もすれば不学な白人を超越する黒人を排出することとなると予想している。
つまり、白人を追い抜くには「教育」しかないと心に刻んでいる。
「物力」の中の人口は数だけのことではなく国家の力の根源には「教育」と「規律」が不可欠であり、なおかつ、民心がみな同じ方向を向いていることが国を興す元となっていることを自覚する。
にもかかわらず単に2千年の歴史を掲げるものの、「上等の人」が学ぶのは「高尚の空理」で人民の切実な問題には目をむけない。「中等の人」は「守銭奴」となって金を稼ぐことには忙しいが、業を興す心があるわけではない。「下等の人」となればかろうじて衣食にありつき呼吸をするのみである。
これでは国が興らない。人口が億になっても富強にプラスにはならない。この感想は、アメリカとアジアを対比して、国の興り方と速度に圧倒されたことが大きく影響をしている。
アメリカの勢いを見たことで「我が邦の惰偸こそ驚くべきこと」と言う痛烈な自己批判をしている。結論として「勤勉する力の強弱」が国力の違いとなる。民の数と教育と勤勉の違いがアメリカとの差となったとしている。