落ちぶれた日本企業
平成になって、そんなに間が立たないときのことだった。ある、有名な食品会社の役員会議用の資料作成ツールを依頼されたことがあった。簡単言えば部長以下のマネージャの会議資料は数字。役員たちの会議資料は「◎」「〇」「△」「▲」「✕」のような記号にして作表するという内容。
マネージャたちは数字が命だけれど、役員にとっては達成とか未達とか、横ばいのようなイメージによる把握の方が意思決定をしやすい。
その経営会議は月に一度の開催だったが、ツールを依頼してきたマネージャの話では、週に1度開催できるようしたいと言っていた。というのは、新製品を出すと2週間で類似品が市場に出回ってくる。新製品には開発費用がかかるが、類似品には開発経費がない分、廉価で販売できる。
そうしたことを抑えるためには月1度の会議ではだめだということであった。
日本型の商習慣としてメーカーがいて、1次の問屋、2次の問屋がいて流通通して小売りとなる間に、原価と売価に乖離が広がる。農協も漁協も似たようなもので、そこを通さなければ肥料や網や燃料、飼料なども安く買えない。しかし、困ればお金は貸してくれるし直売するにはコストがかかる。
国会議員が国税や司法に忖度させて裏金を作る。「政策活動費」などと言う怪しいお金で政策どころか県会議員、市会議員、町会議員、村会議員、団体、協会などにお金を配り、網の目のような集票構造と利権構造を作っている。
国の経済が発展し、人口も増えていたころはそれでもよかったけれど、過去30年の停滞期においても企業は組織改革ができず、会議はするけど意思決定は遅い。政治は目も当てられないほど低劣なザマになり果てている。
ジョブスは市場調査は必要ないと言っていた。なぜなら、イノベーションには前例がないから市場調査しようがない。
ERP(統合基幹業務システム)を導入すれば意思決定が速くなるようなことでもない。
30年超前の日本には、カリスマ経営者が何人も登場したことは事実だ。それを支えていたのは現場の力でもあった。職場には、戦前教育を受けた人材が多くいたことも、きっと力になっていた。人口も増えていたから消費も盛んだった。バブルとは単に金融の戯言であるけれど、所得が増えれば人口も増え、消費も増えるのは自明なことだ。
「DX」とは「デジタルを使った変容」ということになる。なにが「変容」しなければならないかというと、デジタルを使うことではなく、デジタルを使う組織であり、組織階層にプロットされている人材の意識変容である。
ここを変える。「変える」と言っても意識を変えるのではなく、垢のようにポストにしがみついている人材を入れ替え、無駄な組織階層を短くしていくことに尽きる。同様に、職位に応じた権限と責任を明確化させることである。
しかし、それは日本型成功モデルの終焉であり、それを文化としてきた組織構造の終焉でもある。
落ちぶれた日本企業の原因は、デジタル化に遅れたのでもなく、現場の力が脆弱になったのでもかった。判断も決定も責任も経営トップにあり、さほど役にも立たない経営幹部と中間管理者の存在が、いつの間にかメリットよりデメリットが過大な存在になってしまっていた。
それを「企業文化」というなら、幕府が崩壊したような破壊的イノベーションが起きるまで、今のままで行くしかないのかもしれない。