表に出ない人たちが動き出した

表に出たがらない人
小学校時代から今に至までの経験ですが、優秀な人は「表」に出ようとする人は少なかった。また、優秀な人で、良くしゃべる人も少なかった。
小学校の3年から6年まで同じ先生でした。1学期の学級委員長は先生が選びます。2学期と3学期は立候補して選挙で選びましたが、今から思っても1学期の学級委員(民主的選択ではなく独裁者=先生による選択)だけが優秀だった記憶があります。
表に出たがる人
政治というと「選挙」になります。街頭に出て、認知能力も定かではない大衆相手に何を言っても無駄なことは、たとえば去年の東京都知事選を見れば分かるように、開票と同時に小池さんが300万票獲得しましたが、彼女が300万票獲得するだけの発信をしたようには思えませんでした。
つまり、選ばれる人の適格性以前(例えば有名であるとか)に決まってしまうのが「選挙」だとするなら、立候補する意味は当人の優秀さやビジョンなどは全く関係がないことになります。
有名性、認知度、メディア暴露等々、政策とは無関係なところに投票ポイントがあることをもってしても、いまのやりかたが「至上」「最良」「秀逸」であるとせざるを得ないことに、疑義が生まれないことに大いなる不思議を感じますが、話がそれるのでやめます。
政治資金団体という毛細血管
自民党は、「政治資金団体」を使って、毛細血管のようにお金を貫流している、これが「党勢拡大」とかの名目になっている。よって、自民党系から立候補するのと無所属から立候補するのとでは、「組織票」とはいうけれど「お金」の差を生んでいる。
つまり、立候補する人の資質など、全く関係していない。選挙が近くなれば「バラまき」。これが、認知能力が低下している人たちに投票行動を喚起する最良のカンフル剤となる。
政治は「金」、役人は「天下り」
こんなことで決まる「民主主義」という「選挙」の馬鹿らしさに対して「優秀」と思しき人たちが名乗り出ようとするはずがなかった。
なぜなら、「高潔」であったり、「満足な人生」を過ごしているのであるなら、「不浄」「不潔」「不純」「不善」な世界に身を置く必要もないからであった。
ところが、石丸伸二という人間が、理路整然と登場することで、「政治家の無能」を指摘し、「オールドメディアのだらしなさ」と敵対し、それでも日本の将来を見据えて行動に出たことで、変化が出だしている。
「再生の道」という日本再生
どう見ても「優秀」そうな人たちが「再生の道」の候補者として登場している。
いままでなら、表に出ずに自分の人生を謳歌するはずの人たちが石丸伸二という人をきっかけに「表」に出て、自分の人生と世の中を変えてみたいと思うようになった。
「優秀」と「当選」には相関はない
東京都には300万人の都知事支援者がいるのだから、結果を期待するなら投票率が上げるしかない。
所詮、都会とは田舎者の集合体なのだから、東京そのものに興味を持たない層も分厚いだろう。
ひとたび「表」に出た人たちを、「再生の道」として、どのように今後の展開につなげていくのかの中長期の戦略にも期待が持てる。
大いなる違和感の公認
国政では総理大臣が差別主義者(法務局の公式見解では、人権侵犯の認定が前提であり、その上で措置を猶予し、啓発を行っている)を自らが公認しておきながら「大いなる違和感」を持っているのだそうだ。
下部組織が推薦してくれば、一国の総理大臣が「大いなるい違和感」を持ったとしても「推薦」しなければならない組織になっている構造が見えてしまった。
権力構造がヒエラルキーにはなっていないようだ。それゆえに、総理大臣にすら「リーダーシップ」が与えられていないことを浮き彫りにしている。いいか、悪いか羽部としてアメリカ大統領との大きな違いでもある。
大衆の責任
これでは、なんにも変わらない、なんにも変えられない、むしろ悪い法へ悪い方へと変えられていくのが今の日本の政治。「大衆」という、認知能力が低下している有権者が、こんな政治が「当たり前」だとして受け入れてきた。
30年の停滞をあげつらうが、政治も官僚も有権者も、自分の生活以外になんらの「責任」も「展望」も持つことなく「欲」だけを募らせてきたツケが回ってきた。
日本は変われるか?
まず、人口減少を食い止めること以上に、意識改革は難しいだろうが、それには100年以上の歳月を要する。
圧倒的な数の「認知能力低下組」となっている有権者改革は、死滅一掃されまで待つ以外にない。
彼等を希薄にするためには、「認知能力健全組」が選挙に行くしかない。
とはいうけれど、選ぶ先もない。
「財務省解体」という感情的な行動も、憂さ晴らしはなるかもしれないが、現下の経済政策として「最良」で「有効」なのは「財政出動」と「減税」でしかないが、政権を交代しても、「財務省」を解体できなければ何も変わらない。