詳説「日本史研究」による長岡京
長岡京は桓武天皇によって平城京から長岡に移された宮城である。ここで、見解が分かれることがある。奈良時代はいつまでで、平安時代はいつからなのかということ。
奈良時代は元明天皇が藤原京から平城京に移したのが710(和銅3)年と言われている。ここが奈良時代の起点になる。
平安時代は「ナクヨウグイス」で覚えた通り794年と覚えさせられてきたが、平安京から平安時代が始まるのか、桓武天皇が即位した時から平安時代になるのかは見解が分かれる。
狭義の解釈では784年までを奈良時代とする考え方もある。また、桓武天皇の即位は781年であるから、そこからでもいいような気もするけれど、桓武天皇は平城京を嫌って長岡京を作ったのだから、やはり784年までが奈良時代で、以降が平安時代とするのがいいかもしれない。
元明天皇から桓武天皇までの間、ずっと平城京だったわけではなく聖武天皇のときに恭仁京、難波京、紫香楽京と都を移している。
光仁天皇の父親は志貴皇子で、天智天皇の皇子であり、ここから天皇が天智系に戻る。光仁天皇には井上内親王という聖武天皇の皇女が皇后で、他戸親王が生まれていたが、この二人を陰謀で排斥したのが藤原式家の藤原百川であった。
他戸親王を排除できたことで、山部親王が桓武天皇になることができた。山部親王の母親は高野新笠で、帰化人の系統であったため山部親王は、本来であれば臣籍降下して貴族として生きるはずであったが、式家の策謀によって井上内親王と他戸親王を排除できたことで天皇になれた。
そこで、藤原式家にとっても都合のよかった長岡に都を移すこととなった。その指揮をしたのが藤原種継であったが、平城京・奈良の勢力によって暗殺される。
また、桓武天皇は同母弟であった早良親王(皇太子)も策謀によって排除し、自分の息子の3兄弟を天皇にすることができたが、早良親王や井上内親王などの怨霊によって母・高野新笠や皇后の藤原乙牟漏らが相次いで死ぬこととなり794年に平安京へ遷都することとなる。
つまり、長岡京は784年から794年までの10年だけが都であった。