運命の分かれ道《オー・ヘンリーの場合》

イヴォンヌとケンカしたダヴィドは村を出てパリを目指した。

左の道

15キロほど歩くとT字路となりダヴィドは迷った後、へ行くことにした。

30分ほど歩くとぬかるみにはまって難儀している馬車が見えたので手伝ってやったら紳士が馬車に乗るよう促すのでためらいながらも馬車に乗った。そこに婦人と侯爵がいて、その侯爵と拳銃で決闘することになる。そして無残にもダヴィドは心臓を撃ち抜かれて死ぬことなる。

右の道

15キロほど歩くとT字路となりダヴィドは迷った後、へ行くことにした。

ダヴィドはパリに着き部屋を借りる。買い物して帰ると階段に女性が座っている。その女性は革命を考えている連中の仲間であったのだがダヴィドは、そうとは知らずに言われたままに使いに出て捕まってしまい、身代わりとして馬車に乗せられて革命派に暗殺されてしまう。

本道

15キロほど歩くとT字路となりダヴィドは迷った後、道の脇に腰を下ろして休んだ。

イヴォンヌとケンカしたことを後悔して村に戻りイヴォンヌと結婚した。ダヴィドは詩を書いてばかりいてオオカミが羊を殺すことで、数がどんどん減ってしまいイヴォンヌとケンカばかりするようになった。仲裁に入ったブリル氏がダヴィドの詩を読んで、もう詩を書くのをやめて羊を増やすことに専念するように勧めた。そこでダヴィドは拳銃を買い込んできて、自殺をしてしまった。

まとめ

オー・ヘンリーの小説では、左へ行こうが右へ行こうが、あるいは来た道を戻ろうが、その先に待っている宿命は「同じ」ということ。ダヴィドは「」が宿命であったけれど、宿命が「成功」なら同様に右を選ぼうが左を選ぼうが「成功」するということなのかもしれない。

いずれにせよ、人生とは「可能性」と言う言葉で夢を語るけれど、一本の道をたどっているだけであって二通りの生き方は選べない。

「あの時こうすれば」、「もっと違う家に生まれれば」などという考えを持つとしても、それは自己に対する詭弁でしかない。

人生は「運」などで成り立っているわけではなく、すべてが「宿」っていることに気が付くべき。「運」というのは単に認知のことでしかなく、すべては「摂理」として厳然として推移している。

人一人の人生など、摂理からすれば意味も価値もあるわけではない。