隠蔽を考える

なぜ「隠蔽」するか
権力が「隠蔽」しようとする背景には、以下のような様々な理由が考えられます。
1. 自己保身と権力維持:
- 不正や失策の隠蔽: 自身の不正行為、汚職、失政などが明るみに出ることを恐れ、責任追及や失脚を避けるために隠蔽しようとします。
- 批判や反対意見の封じ込め: 自分たちの都合の悪い情報や批判的な意見を隠蔽することで、権力基盤を揺るがす可能性のある要素を排除しようとします。
- イメージ操作: 都合の良い情報だけを公開し、都合の悪い情報を隠蔽することで、世論を誘導し、支持を維持しようとします。
2. 特定の利益の保護:
- 経済的利益: 特定の企業や団体と癒着している場合、その利益を守るために不都合な情報を隠蔽することがあります。
- 政治的利益: 特定の政策やイデオロギーを推進するために、その正当性を疑わせるような情報を隠蔽することがあります。
- 組織の利益: 所属する組織の不祥事や弱点を隠蔽することで、組織の評価や存続を守ろうとします。
3~5は省いた。「ただし」として、国家の安全云々があった。が、同時に「しかし」もある。民主主義社会においては、原則として情報は公開されるべきであり、権力による不透明な隠蔽は監視され、批判されるべき対象でなければ権力側はやりたい方だになる。
権力の隠蔽は、透明性の欠如、説明責任の放棄につながり、社会の信頼を損なうだけでなく、不正の温床となる可能性を孕んでいます。そのため、情報公開制度の充実や、メディアによる監視、市民社会の批判的な視点が重要となります。
731部隊の公文書公開について
防衛省に保管されていた731部隊の人体実験を示す公文書の存在を明らかにし、政府が長年にわたりその事実を認めず、関連資料を非公開にしてきた責任を、共産党の議員が追及しています。
これに対し、政府側は文書(公文書として)の存在は認めるものの、客観的な事実確認が困難であるとの認識を示し、議論は平行線をたどった。
「客観的な事実確認が困難」なら、死刑判決から数樹年も経過していて未執行な事犯は、すべて「事実認定が困難」なはず。
ポイントは、非公開にしてきた経緯は公表できるはず。「事実確認が困難」なのは、アウシュビッツと異なり、被害者の生存が皆無(731部隊で「丸太」とされて生存者は皆無であった)であったことにも起因する。
意図的に「隠蔽」しようとするなら上記「1」か「2」のいずれかが該当するはずであり、そうではなく政府として公式に「公開」できない明確な事情(民主主義的な意図の元)があるのかに尽きる。
行政文書ではないが公文書
政府見解としては、「具体的な人体実験の記録を含む公文書」として認めながら、「内容について真偽」が確認できないので「行政文書」ではないというのが2025年3月の政府見解となった。
イペリットガスを致死量与えると「死ぬ」ことの事実関係が証明されれば「行政文書」になるらしい。それまでは、もch時込んだ当時の軍医の「私文書」として位置付けるようだ。
かつては「不存在」としており、いまは「公文書」にはなった。
公文書と行政文書の違い
【公文書】
- 国や地方公共団体の機関または公務員が、その職務上作成する文書
- 公文書管理法で管理の対象となる文書
- 自治体の活動や歴史的事実の正確な記録
【行政文書】
- 行政機関の職員が職務上作成または取得した文書
- 当該行政機関が保有し、組織的に用いるもの
- 公文書管理法に基づいて作成や管理が行われる
結論
「隠蔽」するのは「やましい」ことがあるからに過ぎない。
「やましい」と判断する権限を持つ人間の価値観に依存しすぎている。そこを打破しない限り、民主主義の公明性はいつまでたっても浸透し得ない。
そこに踏み込めないのは、単に政治の力が官僚より「下」に置かれているからに過ぎない。これを、「本末転倒」と言うように見えるが明治以降、「本」が「官僚」で、「末」が「政治家」だった。
政治家には「金」と「権力」でもあてがっておけばいいという、今につながる官僚コントロールの「下」に置かれている現状を、いつ打破できるのか。
「再生の道」は、そこまで踏み込めるのか?その覚悟があるのか?