8月6日という日
「7月4日に生まれて」という映画があった。概要は愛国心からベトナム戦争に志願し、仲間を誤射して死なせ、自らも半身不随のけがをして帰国する。国を愛しているからこそ戦争に志願し、国を愛しているからこそ戦争に反対する主人公の訴えは、国はもとより、国民にも届かない。
日にちで言えば、その1か月と2日後の8月6日に、広島に原爆が投下された。ただし1945年。
ベトナム戦争とは、1955年から始まり、1965年からアメリカが本格参戦(北爆)し、1975年にサイゴンが陥落した一連の戦争。
8月6日はベトナム戦争が始まる10年前の広島に、アメリカ軍はリトルボーイを投下し、この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)の内、9~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる。
戦争終結の手段であったとしても、最初の1発は現実の都市である必要はなかった。警告として、都市近隣(あるいは東京湾)に落としておいて「敗戦を認めなければ、この新型爆弾を東京に落とす」というような警告でことは済んだはず。
それを8月6日の3日後に立て続けに長崎に落とす必要は全くなかった。
これは、単純に人道上の犯罪でしかない。国際法から見ても、意思決定をした人間、実行に加担した人間に処罰を下すべき犯罪でしかない。
目的のために手段を選ばないことを容認するなら、いかなる戦争にも「目的」はあるはずで、その手段の是非を問わないのであるなら、ロシアがロシア人救済のためと称してウクライナに侵攻しようが、イスラエルがイランにいるハマスの司令官を殺害しようが、すべてを容認しなければならなくなる。
唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約に否定的である理由は、「核保有国が核兵器禁止条約に参加していないのに、日本が参加しても核兵器廃絶にはならない」というのが、参加しない日本政府の理由だそうだ。それを是とするなら大国の横暴に対して日本は未来永劫見て見ぬふりしかできないことになる。
いまのところ、唯一の被爆国であるからこそ「核兵器禁止条約」を批准することが重要な決断であるが、あえて批准しない背景としては、いずれ核兵器を保有しようとしているからなのだろう。たしかに、弱小日本としてアメリカから中古のミサイルを言いなりの騎亜閣で交わされるより、圧倒的にコストパフォーマンスはいい。平和ボケした無知愚鈍なる有権者をだますのも、忖度メディアと結託すればさほどの困難は伴わない。
結局、解決のしようのない矛盾を抱えていて、それを「どうにもできない」として受け入れて戦後79年経ってしまった。政治とは「どうにかしよう」というビジョンと決意がなければ、政治屋の裏金作りの道具でしかないということだ。