支倉常長の手紙

支倉常長は1571年に生まれて1622年に亡くなっています。伊達政宗の命により600石取りとなる。文禄・慶長の役で朝鮮に渡海したという記録がある。

1609年にロドリゴの一行が台風により上総御宿に座礁し、家康が船を造って贈り、これをきっかけにしてスペインとの交流が始まる。

伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定し、スペインからローマに行くことを計画したが、1612年に浦賀から出向するものの暴風にあって仙台に戻り、新たに建造した船で1613年に出向する。

天正遣欧少年使節は、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で、支倉は少年らに遅れること31年後ということになる。

西洋式帆船に乗船して太平洋を渡り、当時スペイン領であったメキシコのアカプルコから陸路で大西洋側に出、そこから大西洋を渡ってスペインに着く。1615年にスペイン国王フェリペ3世に謁見、洗礼を受ける。

イベリア半島から陸路でローマに行く。ローマ教皇パウルス5世に謁見し、ローマで市民権と貴族を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられる。有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となる。

しかし、この時期に日本ではキリスト教への弾圧が始まっていた。1620年に帰国。帰国後2年で死去した。家臣がキリシタンであったことの責任を負って嫡男は処刑され断絶する。

と、ここまではwikiの要約になります。下記要約は、岩倉遣欧使節団についての記録からの引用です。

明治6年5月、ヴェネチアで「アルチーフ」なる施設を訪れ、その「書庫」で「支倉六右衛門」が遺した署名入りの文書を見せられます。当時は伊達政宗が支倉常長を遣欧させたことが知られておらず、使節団の公式報告書である「米欧回覧実記」には、この文書の来歴について「怪しむべきに似たり」という感想を漏らしていますが、遺された記録が隠されていた事実を明らかにした劇的な一例といえるでしょう。

国立公文書館

「アルチーフ」とは「アーカイブス」のことで、ヴェネチア国立文書館のこと。1861年にイタリアが統一され、各地に置かれた公文書館の一つがヴェネチア国立文書館で1874年に設置された。

岩倉は久米に署名と花押を模写させ「流逐の余蘖(よげつ)にあらざるが如し」。つまりは、流れ去った歴史の残渣のようなものではないとの感慨を示している。

岩倉使節団は、行く先々で目にするものを日本語にしてきたのであるが「アルチーフ」つまり「アーカイブス」の訳語を発想していない。政府の要人でもあったにもかかわらず、この時点でも公文書の保存と歴史的価値については、考えが至っていなかった。

令和の今でも、権力者は「記録」は不都合なモノとの認識しかなく、本質は150年前から変わっていないようです。