「枕草子」が描いた世界《其の01》
「枕草子」に触れたことから、「大鏡」の現代訳を読むことになりました。いまは、現代訳の「源氏物語」を読んでますが、自分にとっての総合的な価値は「枕草子」が上だと思っています。
「枕草子」は文学的価値よりも、ドキュメンタリーとしての価値が高く、宮中の皇后の日常や、そこに実在する天皇が登場する読み物は類を見ないでしょう。
平安時代は、日本の言語文化が最も高尚なレベルとして開花した時代だったと思います。「31文字」で意思の疎通がはかれた言語文化は、日本のその後の時代には盛んにはなり得なくて(せめて鎌倉時代初期ぐらいまで)、そして平安時代においてすら「古歌」や漢文の知識が前提だったというすごい知性の時代があったことに驚嘆しています。
清少納言は966年ころに生まれて1025年ころに亡くなっているそうです。彼女が仕えた藤原定子(977-1001)が死ぬことで宮仕えをやめ、その後の詳細は不明(諸説ある)のようです。枕草子は993年から1000年までの7年間が主たる時代背景として描かれています。
一条天皇(980-1011)の后である藤原定子(977-1001)は藤原道隆(953-995)の長女で、兄が藤原伊周(これちか)。この伊周が定子に紙の束をくれて、その紙を清少納言がもらうことで「枕草子」が誕生することになります。
道隆の死後、弟の藤原道長(966-1028)が登場し、その長女である彰子(988-1074)も一条天皇の后になる。彰子は定子より11歳若い。清少納言は定子より11歳ほど年長。定子は一条天皇より3歳年上で、一条天皇が11歳の時に中宮になっている。
定子・伊周兄妹は父である道隆が43歳で病死することから凋落が始まり、伊周が愚かな事件をしでかし逮捕され、定子が20歳で出家することから道長・彰子に運が傾いていく。
著者の研究によると「枕草子」が書かれるのがこのあたりからのようです。出家した定子を997年に一条天皇は呼び戻し、復縁することなど、当時としては考えられないことであったが、999年に定子は男児(敦康新王:彼は道長の横やりで天皇にはなれなかった)を生む。その翌年に第3児の女児を生むことで崩御することになる。享年24歳。
誰が「枕草子」と名付けたかは不明。いくつかある写本の中で跋文が書かれているものの中に伊周が定子にくれた紙とは別に一条天皇にも献上しており、天皇サイドは「史記」を書くとのことだから、定子は「古今和歌集」でも書こうと思うがどうかと清少納言に尋ねたとき、「ワタシなら枕にします」と答えたところ、「さらば得よ」となり、その紙があったことで後世に「枕草子」が伝わることになる。
この系図は「大鏡」の理解を深めるために作成したものですが、「大鏡」を読もうと思ったきっかけは「枕草子」だったのでこちらにも掲載しておきます。
藤原彰子は、あの時代に86歳まで生きていて、弟の頼通、教通に対して君臨していたようです。
彰子の妹の藤原妍子が入内した三条天皇との間に生まれた禎子内親王と後朱雀天皇との間に生まれた尊仁親王が即位して後三条天皇となる。
藤原能信が養女にした茂子が後三条天皇との間に産む白河天皇が登場することで藤原摂関政治が終焉を迎えることとなります。藤原能信は源明子(源高明の娘であったため)の子で、同じ道長の子でも源倫子のことは明らかに冷遇されていた。藤原妍子が入内した三条天皇も道長とは確執があった。
そんな三条天皇の子や、冷遇されていた藤原能信の養女などが、藤原摂関家に代わる新しい時代を作るというのも、おもしろいことだなぁ~と感心しています。
千年も前のことですが、とても彼ら彼女らの言語文化には足元にも及びません。ITだAIだとテクノロジーを盛んに言い立てますが、所詮人間の思惟は言語化の範囲内でしかないわけですので言語能力が低いということは、すなわち思索も思惟も低いということに他ならないわけです。
マークトゥエインによれば、人間の存在は「思惟」にあるとのこと。その「思惟」は、言語で構成されているわけです。神も仏も、天国も地獄も、すべて「思惟」の中にあることに過ぎません。
所詮、テクノロジーだのAIだのと言ったところで、その程度のものでしかないわけです。AIなどはテクノロジーとしては大いに使い道があると思いますが、それによって人間の思惟が浅く、狭められていくとするなら本末が転倒しているようにも思えます。
ちなみに、「蜻蛉日記」を書いた道綱の母は、道隆、詮子、道長兄弟の父である藤原兼家の第2夫人で、青年の道隆が登場してきます。それも、おもしろいなぁ~と思います。