コミュニケーションを日本語にすると何になるか
福沢諭吉の明治初期に作った言葉で有名なのが「自由、経済、演説、討論、競争、抑圧、健康、楽園、鉄道、文明開化」などになりますが、実は「コミュニケーション」にも造語を充てているようです。
その答えは「人間交際」だそうです。
しかし、現在では全く使われていません。
「会話」は「conversation」、「対話」は「dialogue」だそうです。
英語の辞書を調べると、「communication」には「意志疎通」「感情的つながり」「通信」などと出ていますが、どうもいまひとつピンとくる日本語がありません。
「意思疎通」を調べると「mutual understanding」という目新しい言葉が出てきました。「mutual」は「相互の」という意味だそうで、「mutual understanding」は「相互理解」になります。
しかし、我、稚拙浅学ながら考えるに「意志疎通」「相互理解」を目的としているのが「コミュニケーション」なのではないかと思います。つまり、「意志疎通を図るために」「相互理解を促進するために」する行いが「コミュニケーション」なわけです。
江戸時代、幕末、明治早々において、日本には全くなかった概念であったため、そのままカタカナで日本語になってしまったのでしょう。
同様に昨今、ITなどではカタカナ語が氾濫しています。
つまりは、ITに関しては日本にない概念がどんどん生まれてきているわけで、何をどのように頑張ってもITにおいて日本が頑張れるのは、海外で考えられたアイデアや仕組みを使う、真似ることで寺銭を稼ぐのが関の山になっているわけです。
ITにおいては、革新的技術(イノベーション)が日本発で生まれてこなければ、これから先も後塵を拝し続けることになりそうで、「コミュニケーション」のごとく、カタカナのまま日本語化していく以外に策はなさそうです。
それなら新しい概念が生まれることも難しいそうな気がしています。
蛇足になりますが、平安時代に文学が開花した背景として「和歌」を上げることができます。たった31文字のなかに、その場で表現すべき感情や知識を織り込み、受け手もそれを受け止め、即座に返歌を返すという言語力があってこその開花でした。
明治期に文明開化と称した西欧化の波が来ましたが、まったく考えられなかった概念を受け止めるために言語力を駆使することで日本語化ができたわけですが、いよいよ、言語力も低下してきたことから概念の日本語化ができなくなってきています。
「思索」「思惟」「思考」は、抽象的概念の言語化なしにはありえないわけで、少なくともITの分野においては日本発のイノベーションは望む術はなさそうです。
「言葉」とは「月を指す指」のようなものであるが「月」そのものではありません。しかし、漢字1文字で「月」を想起させることができます。このような言語化がなければ、新たな境地を生み出すことはできないでしょう。
「コンピュータ」を「電脳」といったのは中国でした。日本人が、より日本人になるためには、日本語をもっと身につけなければならないのではないかと考えますが、「それはあなたの感想でしょう」と言われそうです。