「心理的安全性」をめぐる考え方

「対立のない組織」「チームみんなの仲が良い組織」を作る。これでモチベーションが上がるわけではないし、結束が強くなるわけでもない。

成績を問われるような仕事においては「対立のない組織」「チームみんなの仲が良い組織」にはなりにくい。その逆にお役所のような成績や能率、効率を基準としていない組織のマネージャは「対立のない組織」「チームみんなの仲が良い組織」を醸成しようとし、また、醸成しやすい。

あるいは、経営が安定していて従業員が死に物狂いで切磋琢磨しなくても食うのに困らない売り上げが確保されているような組織では、「対立のない組織」「チームみんなの仲が良い組織」がよく見られる。

『心理的安全性 最強の教科書』という本が出ているとのことで、図書館をチェックしたらあったので予約を入れてはおきました。が、外国人が書いた翻訳本は、まとまりがなくページ数ばかり多く、また、訳の分からない例えも多くて辟易とすることがほとんどだったのであまり期待はしていません。

webにあがっていた記事では、「ボトムアップを大切にしすぎている」「プロジェクトの目的を示せていない」「組織づくりを手法に頼っている」「 メンバーの心理的ケアに追われている」の4つのNGとしてまとめてありました。

それぞれのまとめを読みましたが、核心を突いているような気がしませんでした。

そもそも論として、戦前の親は子を叱るときに「理解」を求めませんでした(すべてではないと思うけど)。戦後の親は(自分も含めて)叱るときに教育的指導のような「理解」を前提とした説得のようなものになったと思っています。そうした親子関係で育った子らが会社のマネージャや経営幹部なることで、モチベーションを上げようとして「説得」や「理解」を前提とするようになったと考えています。

戦前、あるいは我々が子供時代の親や先生は平気で殴りました。戦前の軍隊では鉄拳制裁(しごき)によって、結果として自我を徹底して叩き潰すことで組織の忠実な駒とすることができたのだと考えていますが、実態はその時に軍隊にいたわけではないのでわかりません。

これがいいというのではなく、しかし、スパルタ教育には一定の効果はあったように思っています。そこには「心理的安全性」は全くないのですが、自我を叩き潰された水平に見えてくるものは、組織において自己の価値は自分が思うほどのものではないということであり、そう思う仲間は、そう思う時点で均等な仲間になっていくのではないかと思うのです。

「説得」「理解」を前提にすると、TPO(時間・場所・場面)が必要になる。個別対応が必要になる。

しかし、組織にはマネージャの部下に対するTPOは不公平感のもとにもなりかねず、かといってスパルタは自分が受けてもいないし、同様に部下においても親からすら叱られてきてもいないのでドヤスことすらできない。「叱る」ことと、腹を立てて「怒る」ことの違いすらも分からない。「叱る」のか「怒る」のかも叱る側も叱られる側もわからないからパワハラになる。

かくして日本型組織は「仲良しクラブ」化していかざるを得ないように思います。能力至上主義にすれば「心理的安全性」などは絵空事でしかなくなるでしょう。まず、マネージャ以上を能力至上主義に切り替えることから組織の強靭化が図れるとは思っていますが、終身雇用になれた労働者にとってはいばらの道になる。