論理学の本を初めて読みました
「はじめての論理学」という本を図書館から借りてきました。
文書の書き方にはいろいろな方法があって、その方法についてたくさんの書籍やネット記事があります。その、どれもきっと素晴らしいのでしょうけれど、それを読むことで文書がスムーズに書けるようには、なかなかならないと感じています。
もちろん、それは本を書いている人や記事を掲載している人に責があるのではなく、ひとえに自己の拙さに起因していることは重々承知しています。
論理学とは「論理的な思考力」を前提とすることで、論理的な文書が書けるようになるとしています。それはそうとしても、では、論理的な思考力がなければ、文書も書けないし議論もできないことになってしまいます。
しかし、事実まさにそのようで、論理的ではない会話や文書があふれかえっているわけで、むしろ、それが日常になっているがために「論理的」であるということは、あたかも「屁理屈」のようなものと勘違いしてしまっている感があります。もちろん、自分においてですが。
結論から先に言うと、論理的思考としてあげられるのが「三段論法」になります。三段論法は「問い」「答え」「理由」という論証の基本セットを条件法によって組み立てる演繹であるということ。
その仕組みは「→(ならば)」「∧(かつ)」「∨(または)」「¬(ではない)」の4つの論理記号と、いくつかの推論規則(前件肯定則、後件否定則、二重否定則など)、そして「ゆえに」で実質的には尽きているとしています。
そこに「帰納」と「仮説形成」を組み込むことで論拠の密度を高めることができることになります。
日常的な用法としては「あなたが好きでないということはない」と言われて「好きだ」と同じとは受け取れないのは単にニュアンスの問題で二重否定は肯定と同じことになります。つまり論理的であるということは、「問い」も「答え」も「理由」も、単純明快であることをもって「よし」とすることに尽きるわけです。
これは「敵の敵は味方」というのにも似ていますが、こちらは似て非なる部分もあるのは中国とロシアのような関係にも近似しているかもしれません。
「演繹」は「説明の論理」とされるのに対して、「帰納」は「発見の論理」とされています。三段論法は「演繹」であり、論法を成立させるためには前提が2つ無ければなりません。三段論法を使う場合は、見落としている前提をチェックしないと論破されることとなりますので、十分な思慮が不可欠になります。
論理を支えているのは「言語」であるので、言語力を高める必要がありますが、とはいえ、議論する「中身」、文書を書くだけの「コンテンツ」がなければ、方法論だけでは何も始めることは出来ません。