志賀直哉の「焚火」から思い出したこと

あらすじとしては、雪の積もる山を登って家に帰ろうとしている息子が死にかかってしまったタイミングで、家にいる母が義理の息子を起こして、いま、山を登っている息子を迎えに行ってくれと言われて迎えに出るという話。母が「息子が呼んでいる」としたタイミングと、山中の息子の意識が遠のき始めたころが、だいたい一致していたという話。

そんな話をしてから焚火の火を消す。薪を湖水へ抛って消すときの表現。

薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んでいく。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる

志賀直哉「焚火」

話した人のオヤジはろくでなしで、前橋に妾を囲っていて夏になると妾と一緒に山に登ってきて山での収入を取り上げていった。そんなオヤジだから余計のこと母と息子のきずなは深かった。

さて、このような話は世間にいくらでも転がっています。

自分の母親は札幌生まれ札幌育ちでした。昭和29年9月26日のことでした。洞爺丸が転覆したのが22時45分頃と言います。ちょうどその時刻に、寝込んでいた母親を起こされたような気がして起きてみても誰もいなかった。翌日、洞爺丸の事故が報道され、その後、その船に若いころからの大親友が乗船していて遭難していたことを知ったそうです。

生前の母親が「親友がお別れに来たのだ」と言ってました。

この洞爺丸の事故を小説にしたのが水上勉の「飢餓海峡」でした。犯人の三国連太郎が青函連絡船から飛び降りて津軽海峡で死ぬところで映画は終わりますが、実際の海難事故は昭和29年でしたが、小説では昭和22年という前提ですから、戦争に負けて叩きのめされた日本の世相を背景にした小説でした。