奥州青森までの鉄道史
少し前と言っても半世紀以上前ですが、東北本線は上野からの発車でした。ディーゼルになる前は蒸気機関車でした。それが、ディーゼルになり、電化したのは昭和43(1968)年。
そもそもは、岩倉具視が高島嘉右衛門の意を受けて明治5(1871)年に「東京より奥州青森に至る鉄道」が政府に提言される。
東京 - 高崎間が第一区線、第一区線の途上駅 - 宇都宮 - 白河間が第二区線、白河 - 仙台間が第三区線、仙台 - 盛岡間が第四区線、盛岡 - 青森間が第五区線とされ、この順番で建設が進められた。
第一区線は、当初品川から赤羽、川口に至る経路が計画されたが時間がかかることが想定されたため、上野から赤羽に至る経路で建設されることとなった。明治17(1884)年に第一区線は全線開通。当初は大宮には駅がなかった。
当時の両毛地域は養蚕、製糸業がさかんであり、熊谷で分岐させて第二区線を開始させようとしていたが、岩槻分岐案と大宮分岐案が出され、陸軍も支持していた大宮分岐案が採用され第一区線に大宮駅を作り、ここから第二区線が建設されることになる。
明治18(1885)年に大宮―宇都宮の営業が開始されるが利根川の架橋が完成しておらず渡船運行された。
第三区線は明治20(1887)年に開通。第五区線は、明治24(1891)年に開通し、上野-青森が全通となる。直通は1日1便で26時間半かかった。三陽鉄道が倉敷まで開業したのと、ほぼ同じ時期のことであった。
自分の記憶では、上野から札幌までが25時間かかっていました。函館から札幌までが5時間、青森から函館までの青函連絡船が5時間でしたから、上野から青森までが15時間だったということでしょう。
当時の寝台列車は1等から3等まであって、1等は2段ベッドで進行方向に平行に寝るようになっています。2等は3段ベッドで、これも進行方向に平行に寝るようになっています。3等は3段ベッドで進行方向に直行するように寝るので、列車が止まったり動いたりするたびに体が揺れました。
青森に着くと、青函連絡船へは1等車の人から乗船します。通常は畳敷きの大部屋で、好きなところに雑魚寝しています。青函連絡船は、下北半島と津軽半島を抜けると上下に揺れるようになり、時にはイルカが並泳することもありました。
長万部でカニ弁当を買うのが恒例でした。今と違って列車が動き出してからでも乗れたのでぎりぎりまでホームにいることができました。今はどうなのかはわかりませんが、お茶がちゃんとした瀬戸物でできていて、お猪口のような湯飲みで飲みました。
逆に札幌から上野に帰り着くと、赤帽という人がいて、その人にお願いして乗り換えの京成上野まで持ってきてもらいました。国鉄の上野から京成の上野駅に行く間に、上野公園に行く階段があり傷痍軍人がアコーディオンを弾いていました。
いま、「赤帽」というと軽トラックで荷物を運ぶ運送業者のことですが、半世紀ほど前の「赤帽」は駅構内にいて、赤帽の人に荷物を運んで賃料を払う「ポーター」のことでした。
わずか半世紀強前の日本は、こんな時代でした。それから、さらに半世紀遡ると「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」などと、上野の停車場で故郷を感じる歌人もいました。