嵯峨天皇と漢詩
「隴頭(ろうとう)に秋の月は明らかなり」
という題で嵯峨天皇が五言律詩を作っている。律詩は絶句と違って8つの句から構成される。五字から成るものと七字から成るものがあり、それぞれ五言律詩、七言律詩という。
律詩の8つの句は2つで1つの聯(れん)とみなす。第1聯を「首聯(しゅれん)」、第2聯を「頷聯(がんれん)」、第3聯を「頸聯(けいれん)」、第4聯を「尾聯(びれん)」と呼ぶ。
4つの聯は必ず韻を踏まなければならない。
この嵯峨天皇御製の漢詩に対して小野篁(たかむら)の父である小野岑守(みねもり)も、同じ題で五言律詩を作っている。
嵯峨天皇は自らが一人の才人として漢学をたしなみ、一人の詩人として漢詩を作った。また、天皇という立場から漢学・漢詩の興隆に努めた。
「隴頭に秋の月は明らかなり」とは、唐王朝が西方の騎馬民族征伐に赴く将軍に手向けているが、同時に陸奥国へ送り出した小野岑守に手向けている。「隴頭」とは「隴山のそば」ということで「隴山」とは「陝西(センセイ)省と甘粛省との境にある。昔から、異民族との境界をなす山として、歴代王朝は隴関(ロウカン)などの関を設けた」とのこと。
そして、小野岑守の作った漢詩は、唐の皇帝の命によって西方に赴いて騎馬民族と戦う将軍の忠誠を表している。
このやり取りからすると嵯峨天皇と小野岑守の関係は、大切な臣下であったことがうかがえる。というのは、嵯峨天皇の兄である平城天皇の皇太弟の時に小野岑守は漢学の教師として勤めていたという関係でもあった。その後の小野岑守の昇進を見ると嵯峨天皇の信任の厚さがうかがえる。
よって、嵯峨天皇が小野岑守の息子の篁(たかむら)にも大いなる期待を寄せていた。都に帰った篁は、18歳であったがそこから猛然と勉強をして大学寮を目指し、文章生(もんじょうしょう)に合格する。大学寮には「明経生」「明法生」「文章生」「算生」があり、文章生になるためには、試験を通らなくてはならず、中国の古典・歴史書に精通し、それらの表現や出来事を巧みに用いて新たな漢詩を作らなければならなかった。
「隴頭に秋の月は明らかなり」で嵯峨天皇は、表面的には唐王朝に従軍した将軍の郷愁を詠んでおり、小野岑守の漢詩も唐の将軍の皇帝への忠誠を表している。平安時代の漢詩では、日本人の心情を表すとしても、あたかも中国のものであるような表現にしなければならなかった。
小野篁が文章生に合格したのが21歳であった。菅原道真が文章生に合格したのが18歳であった。ちなみに光源氏の息子の夕霧も文章生を受けるために12歳から本格的に勉強を始めている。
小野篁が受けた文章生の試験に出された漢詩の題が「隴頭に秋の月は明らかなり(隴頭秋月明)」であった。そして、これは律詩ではなく60字で、題の5文字のうちの1文字の韻を取って作るというものであり、篁は「明」を使って作った漢詩は嵯峨天皇の異母弟である淳和天皇が作らせた「経国集」という勅撰漢詩集に収められている。
現在、官僚になるためには東京大学をストレートで合格し、留年なしで国家公務員の上級試験を良好な成績で受からなければならないが、それよりも平安時代の官僚試験のほうが難しそうな気がする。