「看板」と勝手な記憶
2023年9月3日の夕焼け。浅草寺が真っ赤に燃えていました。
で、池波正太郎の「看板」を、おそらく20年ぶりくらいで再読しました。この「看板」は大好きで人にも勧めてきましたが、再度読んでみると、ずいぶん記憶と違っていたのに驚きました。
記憶は脳の中で勝手に編集されるとは言うものの、本当に自己都合で勝手に編集しているものだと改めて驚いた次第です。
池波正太郎の「看板」のあらすじは、夜兎の角右衛門は泥棒だった。しかし、金のあるものは、貧しくなってしまったものからからお金を盗み取ったのだから、そのお金を盗み取ることは「盗み返す」だけだとうそぶいている。しかし、「盗まれて難儀するものからは盗まない」「殺傷はしない」「女を手籠めにしない」という戒律があった。
角右衛門が鳥越から菊谷橋のほうに歩いていると商家の手代らしき男が目を血走らせてきょきょろ、ふらふら歩いているのを見つけて「落とし物ですか」と聞くと「45両ほどを落とした」という。そこに右手の無い乞食の女が「お~い」と現れ、「これを落とさなかったか?」といって袱紗包みを差し出すと、それが45両の包であった。
乞食の女は、それを渡すとさっさといなくなってしまった。角右衛門は、女を探し、行きつけの料理屋へ連れて行き「うなぎ」をごちそうする。女は死ぬまでに一度はウナギを食べてみたかったといい、角右衛門の分まで食べる。
そこで世間話をする。角右衛門は、「なぜ落ちていた金をくすねなかったのか」と聞くと女は「落ちるところまで落ちても、心に頼るものが欲しいものだ。乞食はひと様のお余りで生かされている。乞食の看板は拾い物を届けること」という。
女が手を失ったのが、じつは角右衛門が泥棒に入ったお店の飯炊き女だったことが分かる。
女は、店を抜け出したところで、見張りをしていた綱六に腕を切り落とされたことが分かった。角右衛門は、その時、初めて綱六を人から紹介されて使ったのだった。
角右衛門は女に1両を渡して、仲間と一杯やってくださいと言って別れた。
翌朝、角右衛門は乞食の女を自分のところの女中にしようと思って浅草の乞食溜まりに行ったら、女は昨日、首をくくって死んだと聞かされる。女は「生まれて初めてウナギを食べた。これから先、生きていてもこのようないい思いはできないだろう。このままあの世に行ってしまいたい」と言っていたとのことで、本当に首をくくってしまった。
そこで角右衛門は有り金を女房に渡して長谷川平蔵のところに出頭し、「自分の看板は刃傷をしないことだったが、看板を下ろさなければならなくなりました」というと、平蔵は「御前の看板は単なる見栄だ」と喝破する。
自尊心(プライド)と見栄(虚栄)には明確な違いがありますが、それは他人にも自分にも分からないものだと思います。例えば慈善と偽善が軽々に識別できないようなものじゃないでしょうか。
勝手な記憶
角右衛門が盗人していた時に、角右衛門が女の腕を切り落としたのだと勝手に思っていました。その後、掟を作って殺傷や女を犯したりはしないような盗人になった。しかし、自分が若いころの不始末として腕を切り落とした女の人生が、そこから暗転し乞食にまで身をやつしている。
にもかかわらず、拾ったものはくすねないという看板を上げて善良さを心のよすがに生きている。しかも、ウナギを初めて食べながらおいしいと言って涙を流す。
そこで角右衛門は悔いて平蔵に自首する。それが、自分の盗人としてのプライドだというと、平蔵は犯罪者にプライドなどない。あるのは見栄だと喝破するというような記憶になっていました。
池波のストーリーでは、角右衛門が知らないところで殺生があったことで反省して自首することになっていますが、いまひとつ、きれいごとすぎる気がして、記憶が勝手に書き換えていました。
自尊心は、宮本輝の「流転の海」でも熊吾を通して扱われています。「流転の海」も最初は面白かったけれど、息子が大きくなるあたりから興味が薄れてきました。第6部あたりで止まっていますが、いずれ継続しなければと思ってはいます。