「論破芸」という話芸
登場人物「A」は、掲示板システムで巨万の富を築き今は海外を拠点に論破芸で名を馳せている。
「論破王」の別名で知られ、ディベートの強者として、メディアに取り上げられることが多い。
登場人物「B」は、県知事を女性問題でやめて、今は国会議員になっている
「B」は、「A」を「相手の感情を揺さぶり、瞬間的に言い返す力を競っている」「些末な部分を無理にあげつらっている」「相手の主張を“極論”にして返してくる」「Aは自信満々で言ってくるから、彼のほうが正しいような印象を与える」「他人が返答しづらい質問をする『芸』でしかない」「議論が得意なわけでもないし、しかもじつは知識も乏しい」と手厳しい。
「何か専門知識があるわけではない」「ネット検索しながら検索結果をうまく使って、つまらない揚げ足を取ってくる」「一人だけ無礼な言論をしていい立場にいるから、強く見えるだけ」
「A」が、立場が悪くなってくると論点をずらし、「B」がへこむ話題に振ってきた。
これが「論破芸」の正体とすると、「炎上芸」というのあって、世間一般の考え方に対してあえて反論から始めることで、耳目を集めるというのもあります。
なかなか手厳しいです。
どちらにしても、貴重な時間をかけてまでYouTubeをみなければならないことはない。もちろん、時間が貴重じゃない人には退屈しのぎになる。
YouTubeでは経済や金融のことなども結構動画にしてあがっているし、世界で起きる時事ネタなどにもたくさんの人が解説しているけれど、どこまで一次情報なのかは不明。例えば安芸高田で繰り広げられている市長と議会のバトルなども切り取りした動画が山ほどあって、それぞれがたくさんの再生を稼いでいる。
「B」が言いたいことは「A」への攻撃ではなく、社会風潮への警鐘のようだ。
言語能力が高いと、本人は知能が高いと勘違いしてしまうようだ。無駄飯ばっかり食って歳月を費やしてきたけれど、今まで出会った知能の高い人には「論破王」はいなかった。瞬時に深い思索をするけれど、言葉を軽薄に発する人は少なかった。むしろ、寡黙な人の方が圧倒的に多かった。
その理由が、やっとわかってきた。言語能力の高い人は「表層的理解」と巧みな語彙力で自己の信念や理解抜きにしゃべることができ、さらに相手の言論を封殺する論法を身に付けている傾向が強い。一方、知能が高い人たちは、普通には考えないような深層にまで理解を求めて思索するし、何かしゃべろうとすると大方は訥弁に近く、相手に理解を求めて発話するわけでもないように思える。
言葉とは不思議なもので、ある程度以上の表層的理解力と記憶力がありさえすれば「論破王」にはなれる。また、それを裏から見て正当化できる言語力があれば「炎上王」にもなれる。しかし、それは単に表層的な「言葉」だけのことでしかない。知性や知能とは、むしろ深層に存在する。
言葉には責任があるというけれど、見方を変えれば「屁」のようなものでもあって、実態を伴うわけではない。その意味からすれば論破王も炎上王も「放屁芸」でしかないが、YouTubeのような道具の世界においては、その「放屁」を楽しむ聴衆がいるから放屁芸人を生み出している。
もし、そこに「言葉」への責任があるとするなら、言葉を軽々に発する人だけが担うべきではなく、それを愛でる聴衆にも責任があるというべきなのかもしれない。「芸」とは、単なる個人のキャラクターや瞬間芸に依存するものではなく、「精進」によって聴衆をうならせるもののはずであった。