「枕草子」が描いた世界《其の14》
上の御前の、柱によりかからせ給ひて、すこし眠らせ給ふを、
「かれ見奉らせ給へ。今は明けぬるに、かう大殿籠るべきかは。」
と申させ給へば、
「げに。」
など宮の御前にも笑ひ聞こえさせ給ふも知らせ給はぬほどに、長女が童の、鶏を捕らへ持てきて、
「朝に里へ持ていかむ。」
と言ひて、隠しおきたりける、いかがしけむ、犬見つけて追ひければ、廊の間木に逃げ入りて、恐ろしう鳴きののしるに、みな人起きなどしぬなり。上もうち驚かせ給ひて、
「いかでありつる鶏ぞ。」
など尋ねさせ給ふに、大納言殿の、
「声、明王の眠りを驚かす。」
といふことを、高ううち出だし給へる、めでたうをかしきに、ただ人の眠たかりつる目もいと大きになりぬ。
「いみじき折のことかな。」
と、上も宮も興ぜさせ給ふ。
なほかかることこそめでたけれ。
一条天皇(15歳)が柱に寄りかかってうとうとしている。「夜が明ける前に寝かせたほうがいいのでは」と伊周(21歳)が言う。それを聞いた定子(18歳)は「そうね」という。
雑用係の女官が、鶏を翌朝実家に持っていこうとして隠しておいたのをイヌが見つけておいまわしたので、鶏が逃げ回って恐ろしげな鳴き声を上げたので帝も驚いて目を覚まし、「どうしてここにニワトリが?」と尋ねると伊周が、
声、明王の眠りを驚かす
と、すかさず朗詠したので、その時宜ににあったすばらしさに、帝のみならず居合わせた人々の眠たげなマナコが大きく見開き、帝も「グッドタイミング!」と面白がった。こんなところが伊周の魅力だった。
となります。
「和漢朗詠集」には、
鶏人暁唱、声驚明王之眠。鳬鐘夜鳴、響徹暗天之聴。
とあります。
意味は、「鶏人:夜の明けたことを知らせて回る役人」のことで、「明王:賢帝」を眠りから覚ます。「鳬鐘(ふしょう):梟(ふくろう)の鐘と書くので夜にならす鐘の事」。その鐘の響きが、夜が明ける前の暗い夜に鳴り響く。
この一説を、鶏がけたたましく鳴きだし、その物音でうたた寝をしている帝が目を覚ます、その瞬間に朗詠するという漢文の知識が伊周にあった。
大鏡ではぼんくらな若造くらいにしかとらえられていないが、一条天皇は藤和定子を愛し、その兄の伊周が大好きだったことは、おそらく事実と思われる。
15歳、18歳、21歳の若い帝と貴族が織りなす平安という時代には、漢文・漢詩や和歌(古今和歌集など)が常識であったということ。
ただし、このことをよく思っていない連中もいた。その筆頭が一条天皇を生んだ藤原詮子と、その弟の藤原道長。伊周の父である藤原道隆が亡くなると、本来であるなら伊周が関白になるところを詮子が一条天皇に泣いて頼み、関白が道長へと渡ることから、藤原定子は悲しみの中で死んでいく。