西川のりおがモノ申す

僕ら芸人はマスコミで生きてます。一種の公人ですから、公の場で答える義務があるんちゃうか、というのが正直な気持ち。都合のいい時だけのマスコミじゃない。不都合になったらダンマリはダメ。

僕の勘では戻らない(松本人志のこと)気がします。もともと、テレビの文化で売れた人ですから。僕らみたいな劇場から出た芸人は劇場に帰りますけど。劇場とテレビの漫才は別物です。
テレビはやっぱり、その時その時。その時が長いか短いかだけです。

「オモロかったら売れる」が、魅力あるホンマの芸人の世界だったんですけど、偉い人に気に入られようと損得だけ考えて。政治家やサラリーマンの世界と同じになっています。自民党派閥の裏金事件と構図はよく似ているんですよ。
芸人も「○○ファミリー」の親分にヨイショばっかして、見返りを期待する。僕がこの世界に入った50~60年前にもあった構造ですけど、一時、消えたんです。

僕はもともと、賞レースには反対の立場です。お笑いって勝ち負けやないと思う。格闘技やないねんから。人生をかけるにしても、芸人は表に出したらアカン。

芸人って、ある程度は熟成されて出てくるもんでね、「味」が大事。同じネタでも言い回しや声の出し方、アイツがしゃべったら違うなあというのが味です。そこに技を付け、個性と芸がマッチしてくれば面白くなる。
今は賞レースで勝てそうなネタを覚え、合格を目指す芸人が増えています。受験勉強じゃあるまいし。

永久に完成のない世界で、サグラダ・ファミリアみたいなもんですわ。だからオモロイねんけど、40歳を越えて子供もいて、出番がもらえんようなら、現実を見なあきません。続けるのも勇気ですけど、やめるのも勇気。やめるべきですよ、大阪万博はマジで!

今、海外客が日本を訪れる理由は安い・おいしい・清潔・安全。バックパッカーも多く、市バスで京都観光してますよ。カジノ目当てに富裕層が来てくれるかは大いに疑問です。

大阪人には俗に言う「けったくそ悪い」の精神がある。「自民党やから通る」いう考えが大嫌い。事実、通りません。維新はその反骨心を利用しているんですよ。

私見

M-1などだけでなく、直木賞や芥川賞のような、文学に優劣付けるのもおかしな話。出版社がビジネスのためにやっていることはみえみえ。そもそも、選考する審査委員自体に、どれだけ才能と見識があるのかが不明。

同じくらいに無意味なのが「ノーベル文学賞」。何を基準に選んでいるのか全く不明。言葉や文化が違うのに。与えるほうも愚かなら、もらうほうも愚か。

あるいは、音楽のコンクールなども似たようなもの。誰の基準においての優劣なのかが曖昧。何のための優劣なのかが曖昧。にもかかわらず、その優劣において「権威」が付与され、ビジネスへと展開されていく。つまり、目的はそこにあって、その道具として「才能」が使われている。

毎年受賞(優勝)する人がいるけれど、流れ行く水の泡のような始末になっている。