友達がいなくても楽しく生きられるか
「友達」とは、何か?
夫婦、恋人とも違う。「知人」とも違う。自分が友達と思っても、相手は知人としか思っていないかもしれない。
AIによると、心理カウンセラーは「本当の友達」のことを「何があっても裏切らない」「自分のことを心から信じてくれる」といった、信頼を寄せる相手だと解説している。
「重要なのは人間関係の質」という人もいて「心が通っているかどうか」「活力をもらえているか」などといった実利の有無こそが大切だという人もいる。
日々の「人間関係の質」が担保されているのであれば、友達であるかどうかは、さほど問題はないのかもしれない。ただの通行人なら眼が合ってもすれ違うだけだが、知り合いなら挨拶をする。それが友人なら挨拶だけではなく、時間があれば「飲みに行こう」ぐらいの展開がある。
「裏切らない」「信頼できる」「心が通っている」「活力がもらえる」のすべてが「友達」だけから与えられるわけではない。友達がいればストレスの多い社会の中でも落ち着くことができるというメリットを主張する向きもあるけれど、「友達」と位置付ける人間関係があるがゆえに拘束される場面も無きにしも非ずだ。
つまり、「求める」ことは、相手からすれば「拘束」されることにもなる。その拘束が、常に「快」なわけではないから、なまじ、「裏切らない」「信頼できる」「心が通っている」「活力がもらえる」レベルの人間関係に発展しない限りは友達などは不要で、知人が何人かいれば事は足りる。
ハーバード大学での「幸福」の研究において、研究の責任者は「人とのつながりの重要性を示している。家族や友人、地域社会とのつながりが強い人の方が、そうでない人よりも幸せで、肉体的にも健康だ」という。
「そうでない人よりも幸せ」というのは、「幸せ」と感じているだけのことでしかないけれど、そのことによって内分泌が活性化するから、多少は健康に寄与するかもしれない。
「友達」の語源を調べると、「友達」という語は、本来は「私たち」「君たち」「男たち」などの語と同じように、「とも」という語に複数の人を表す接尾語の「たち」が結びついた語だったと説明されている。それからすると、友人というよりは、複数のお供。つまり家来を指していたのかもしれない。
「友情」という概念も、もともと明治期に海外から輸入されたものだそうだ。明治になるまでの日本には、友達はいなかったことになる。その代わり「同士」がいて、彼らが幕府を倒したわけだ。
友達がいると「楽しい」という人もいる。一緒にいて楽しいときだけ「友達」というのが、気楽でよさそうだ。
橋田壽賀子さんは、「友達がいないというのは、すごくさわやか」と言ったそうだ。金持ちや有名人になるといきなり「友達」や「親戚」が増えるし、そのことによって失われる時間も多大になってくる。
要するに自分の存在をどのようにとらえるかでしかなく、何をもって「よし」とするかだ。