藤原登場 その前に《1》
鎌足の名が歴史に残るのは645年の「大化の改新」である。厳密にいうと「乙巳(いっし、おっし)の変」というクーデターで大王皇極の眼前で蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷が自害することで権力の構造が変わる。
ストーリーとしては蘇我入鹿が皇位を簒奪しようとしたので誅殺したことになっている。歴史は、その時点で権力を握った者たちのものとして描かれ伝えられるのは宿命。
この時点での鎌足(鎌子)の姓は「中臣」。実際に『大化の改新』での功績は記録として残ってはいないが、654年に紫冠(律令としては三位)になっているから、裏方として中大兄皇子に貢献したのであろう。
日本史上初めてのこととして皇極天皇(35)が譲位して軽王が孝徳天皇(36)に践祚した。軽王は皇極天皇の同母弟。654年に死去すると皇極天皇が重祚して斉明天皇(37)となる。
皇極天皇かつ斉明天皇は舒明天皇(34)の皇后で後の天智天皇(38)・天武天皇(40)を生んでいる。舒明天皇は641年に死んでいる。舒明天皇の先代は推古天皇で、推古が死んだときに継嗣を決めていなかった。それで蘇我蝦夷が舒明を天皇に立てたことになっている。
近年の研究では、欽明天皇(29)の嫡男である敏達天皇(30)の直系である舒明と、庶流である用明(31)の系列とで豪族間の争いがあったらしいが、蘇我蝦夷が舒明を立てたとする説もある。用明にすると母親が蘇我系であったためやり過ぎという批判に対して遠慮したという考え方である。
668年に中大兄皇子が天智天皇となる。669年に中臣鎌足が病に倒れ、天智が見舞っているが、鎌足に死期が迫ると穢れるので弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を遣わし、大職冠とし姓を「藤原」にした。
【補足】
昭和9年、京都大学が地震観測所建設中に発見された遺跡に墓室が見つかり、棺に中に60歳前後の男性の遺骨が発見される。
金の糸がたくさん散らばっており鎌足であろうと推定されたが、地震研究所の扱いが悪いこと、調査もさせてもらえない考古学研究所や大阪府、文部省などとの会議の結果、万が一皇族であったら冒涜になるということで埋め戻された。
遺体は身長164センチ、60歳代の男性、1987年(昭和62年)に発掘当時撮影したX線写真が多数見つかり、それらを解析した結果、肋骨を損傷していたことなど、新たな事実が判明する。史料によると鎌足は亡くなる直前に落馬し、その怪我から体調を崩し亡くなったとある。