藤原氏と天皇の関係
「大鏡」を読み終わり、と言っても現代訳ですが、それぞれのエピソードを自分なりに要約し、不足している情報をwikiで調べコメントとして書き加えたらA4で163ページになってしまいました。
仕上げに、登場人物の関係と天皇との結びつきを系図にしてみました(欲しい人がいるとは思えませんが欲しければPDFを送ります)。
わたしのような下層の民が栄耀栄華を極めた藤原氏や、恐れ多くも天皇たちについて意見を述べるなどと言うことはおこがましの極みではありますが、少し私見を述べてみようと思います。
「大鏡」は、藤原は冬嗣から始まり道長を頂点とすることを記した書き物です。だいたい西暦800年あたりから1052年くらいまでの間のことになります。天皇は文徳天皇から後一条天皇までで、第55代から第68代までになります。
その間に起きるいろいろなエピソードがぎっしりと書かれていて、どうやって調べたのかと思います。現代訳を書いた著者(保坂 弘司さん)の推理では、道長の第2夫人の源明子の娘である尊子の子(つまり道長の孫)の源顕房だとしています。
そのころにはまだ、貴族の日記が大量に読めたのだろうと思います。そうでなければ書けないような情景が多々登場しています。
例えば基経は陽成天皇を廃帝にして、陽成天皇の祖父の弟である時康親王を光孝天皇にしています。このような権力を持っていたにもかかわらず自らが天皇に成り代わろうとはしていません。
それが不文律であったのか、あるいはたまたまのことであったのかはわかりませんが、結果とすれば兄弟間の権力闘争が起きることなく藤原氏は白河天皇が院政を敷くまでの間、栄華を極めています。
と言うのは、藤原北家であることと、自分の娘を入内させ男児を生ませること。その男児が天皇になることで外祖父になれれば藤原本流のなかで藤家の氏の長者になるわけで、仮に年長の兄弟であっても身を引くしかなかったわけです。
出世の順番で弟に先を越されて妹の藤原安子に頼み込んで関白の地位を手に入れた兼通は、兼家と骨肉の争いをしていましたが、軍配は結果として兼家にあがります。ちなみに、兼家の第2夫人は「蜻蛉日記」の著者で道綱の母として知られている歌人です。蜻蛉日記にはハイティーンの道隆が登場するシーンもあります。
エピソードを書き出したらきりがないので止めますが、結論は、「天皇」と縁戚になることで兄弟間の争いを起こすことなく250年間を藤原にとって安泰な時代にすることができたわけです。天皇にとっても皇太子にとっても藤原の後ろ盾がなければやっていくことは難しかったぐらいの力があったけれども、天皇に成り代わろうとはしなかった「知性」が素晴らしいものだと感心します。