言葉とはなにか
言葉とは何か?
言葉は考えるための、あるいは、考えたものを表現するための道具である。つまり、思考の内容を「形」にするものであると言える。思考は、言葉を通してはじめて成立するものであり、言葉を得ることで思索をめぐらすことができるようになった。
言葉を得る前であっても、木は木だし、山は山であった。それぞれに名前を付けるのは単なる「符牒」、つまり、共有化するための道具であった。
つまり、符牒としての言葉が付与されると、それが茫漠としたイメージから言葉が示唆する内容に切り出される。
色の認識も、国や民族によって細かには異なっているが、ニュアンスはほぼ共通している。しかし、厳密には国ごとに知覚に対する連続性があり、それぞれに対応させる符牒としての言葉が充てられている。
それらが民族として共通化することで言語が形成されてきていることから、民族独自の思考方法にもなっていく。それが文化的側面から成立していき、「民族性」になっていく。
旅行をしていい景色を見たり、おいしい郷土の料理を食べても、記憶は印象として残せることは出来るが、印象だけでは、その体験を人に伝えることは出来ない。
しかし、それを言葉にしたとしても、自己が経験した印象をすべからく伝えることは出来ない。
そのようなことを西田幾多郎は「純粋経験」という言葉で言い表している。
何かを見る「私」、何かを聞く「私」と、見たり聞いたりする「対象」とが区別される以前の「色を見、音を聞く刹那」であると説明するとともに、他方、「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」とも説明している。
それは、言葉で言い表す直前の事実それ自体が「純粋経験」であるとしている。そして、印象はその純粋経験に紐づく感情が先にあって、しかる後に知性が言葉に当てはめて、記憶していく。あるいは、思索を重ねていく。
その思索を重ねていくために、「事」が必要になり、学んでいくこととなる。
蛇足であるけれど、ノーベル文学賞のようなものが、どうやって各国の言葉や民族特有の感性や伝統を評価し、受賞作品を選んでいるのかと考えると、実に不思議な気がするし、同じ国内、同じ言語空間であったとしても直木賞や芥川賞のようなアワードも同様に意味不明でしかない。
客観的に指標において評価し得ないものを評価する以上、評価する審査員の能力くらいは、厳密にチェックするべきである。
誰かが恣意的に決めているだけのことであるなら、むしろ芸術を冒涜している。主観的判断が入るすべてのアワードに共通することでもある。