荘子を考える:斉物論《其の13》
適得而幾矣:適得にして幾(尽)くす
自己の本分をとげて自己の生を楽しむこと。荘子の結論。
「得」に「適」すこと。自己が得ているもの、つまり、持ち前に適う生き方をするのが、人として生まれた真価である。
「持ち前」というのも主観である。何を持って「持ち前」とするかは、常に自省をしなければならないが、固執する「我」を個性とすることからも対立を含むことを考慮するべきである。吾が我を忘れる(意識しない)境地を自然本来の「道理」と言っている。
荘子の書いたものに、実は「適」という漢字は随所にみられる。緒方洪庵は、自己の塾の名称に「適塾」と名付けているのも偶然ではない。
「適」を、日本では訓読で「かなう」と読む。同様に「得」を「もちまえ」と読む。
荘子は、さまざまな話を長々書いているが、端的にひとまとめにするなら「もちまえに適う」生き方をせよというのが結論になっていると認識したのが緒方洪庵でもあった。
和之以是非:之を和するに是非を以てして
而休乎天鈞:天鈞に休(いこ)う
是之謂兩行:是を両行という
「之を和する」の前に書かれているのが「善し悪し」であり、ここでは「是」と「非」、それらの調和をもってすることが「天鈞」。つまり自然の原理(バランス)に任せることことが万物の道理である。
ここをもう少しくどく説明すると、「是」と「非」をもって「和」とする。これを「天鈞」としているが、それを何と呼ぼうが構わない。これを「両行」というが、「是」と「非」を両行するならば自己矛盾でしかない。荘子にとって「渾沌」とは、渾沌のママで受け止めることを良しとしている。
それは「混沌の王」という寓話で示している。
似た話として、ドイツではヘーゲルが「アウフヘーベン(止揚)」と唱えている。
立場を変えて「是」とするなら「非」を、「非」とするなら「是」を考えてみることも確かに自己を高みにあげるのかもしれないけれど、自己矛盾を「渾沌」のママでとらえ、いずれかに考えを整理せずに受け止めるのも東洋的な解決法といえそうである。
なまじに「是」「非」とすることから固執がはじまり、惑溺し、自己主張に陥っていくことも多様性(Diversity)というのかもしれないけれど、その多様性においてSNSなどでの誹謗中傷にもつながっていそうだ。