なぜ哲学は難解なのか
「人生の問題を解決するヒントとして哲学が注目されている」などという記事があった。その背景に「生きづらさ」があるという。
幕末には漢学を捨てて大和心にもどすような運動もあり、そうした考えと「天皇」が結びつくことで討幕運動に「正義」が付与された。
慶応3年(1867)、王政を復古するための「王政復古儀」で岩倉具視が「皇家は連綿として万世一系礼楽征伐朝廷より出で候」が「万世一系」の初出であるらしい。
ちなみに、「男系男子」に限る規定は、明治時代に井上毅によって書かれた旧皇室典範で定められた。染色体が云々という話をまことしやかにする人もいるけれど、こんなものが見つかるのが1950年代になってからであって、根拠としては全く脆弱である。
世襲がどれだけの価値を有するのかは、昨今の政治家を見れば歴然としている。
天皇をあからさまに利用したのは平安時代の藤原氏などが典型的であるが、その後、続々と現れる権力者が天皇制を廃絶しなかった「一貫した根拠」は不明だけれど、「皇室」という制度に価値があるのであって、「男系男子」や「万世一系」などという明治に付け足した文言に束縛される必要など、全くないように思われる。
哲学に話を戻すと、明治早々期に海外へ出て、哲学だけでなく、さまざまな洋学を学び、日本へ持ち帰った人々がいて、今の日本の原型が作られている。
哲学だけのことではなく西洋の科学、理学、工学なども一斉に入ってきたときに一番貢献したのは、実は「漢学」だった。西洋伝来の語彙を実にうまく漢字熟語化できたことが、日本の国力にどれだけ貢献したかは計り知れない。
それまでは、日本の思想的学問は孔子と朱子学が中心であったところに、いろいろな学問と一緒に「哲学」が輸入されてきた。
西田幾多郎の「純粋経験」という思考も、なぜ、このように考えるのかが現時点では全く不明。
本の表紙を見れば、本の裏側があることを無意識のうちに信じています。
でも、もしかしたら表紙の反対側には“虚無”が広がっているかもしれない。
たしかに、そうした視点は重要なことと思う。石丸伸二さんや玉木雄一郎さんが話題として登場することで、日本が30年、有効な手を打つことなく「やってるふり」してきたのかの根源に「政治屋」が跋扈していたことにあった。
そして、無能で無気力な「政治屋」の裏に官僚、中でも財務省が君臨していて、彼らの天下り先に「浴びるほど」のお金を投入している。ここを叩き潰すには、官僚にとって無能な「政治屋」が不可欠だった。神輿が軽すぎて、官僚は担ぎ上げ過ぎたた結果として、アベノマスクやアベノミクスなどが典型であった。
そんなことを考えると必要なことは、哲学を学ぶよりは、孔子や老子や荘子の本でも読むほうが、よっぽどためになるような気もしている。そこで図書館から「貞観政要」を借りてきた。
たまたま「日本哲学入門」という本を図書館から借りてきて読んでいるので、仕方がないので最後まで読んでみようとは思っているけれど、「思想」と言われるものに比べると、直截的な表現になっていないので疲れる。