自分の身分を考えて行動する

今の時代に「身分」などというと、前時代的かもしれない。

さて、それでもあえて「身分」などという古色に染まった言葉を使うのには理由がある。「偉い奴は畳で上で死ぬ」。戦国時代であっても、大名は大方、畳の上で死ぬ。山の中で農民兵に竹やりで刺殺されたのは明智光秀くらいのものだ。

有名な話では、インパール作戦で何万もの将兵を無駄死にさせた牟田口廉也は、昭和41年に畳の上(実際には病院のベッドの上)で死んでいる。敗戦後21年目の往生であった。その間、軍人恩給もかなりの額をもらったであろう。

なぜ、偉い人は戦場で死なずに畳の上で死ぬのか。

当然であるが、源平の時代でもなければ大将同士が戦って、もし負けてしまったら、次なる作戦の発令もできなくなってしまうから、死ぬのはピラミッドで言えば数が多い底辺からになる。

何か悪さをして運悪く官憲に捕縛されてしまったとする。その時、自分が偉い人間であるか、どうでもいい人間なのかで罪が決まるのが現実である。

国会議員、しかも与党の議員なら2千万や3千万の金ならごまかしても捕まることはない。どうでもいい人間ならコンビニでおにぎり1個でも留置場に入れられる。

世の中は「偉さ」に応じて、さまざまな仕組みが作られている。東京大学出て官僚になれば、上司にへつらって定年になると、送り迎えの車と秘書がついて、日中は新聞を読んでいて、夜になれば赤坂・新橋の料亭で接待を受けていれば退職金ががっぽりもらえる。

これは不条理ではない。なぜなら、そうした対偶が得られるのは「偉い」からだ。それを見て不平を言う人は、単に「偉くない」だけのことだ。

偉い人の優位な境遇をとやかく言うなら、自らが「偉く」なることが、ひいては経済を成長させるだろう。

トカゲもしっぽの先の方は着脱可能になっているが、根本の方は再生できないことの方が多いらしい。

つまり、自分が切り捨て可能な部分にいるのか、切り捨てできない部分にいるかで発言や行動(態度)を変えなければ、いつ切り捨てられるかわからない。まして、「流動化」などと言われる時代になれば、なおさらだ。