エゴと悪意
ショーペンハウアーの定義によれば「エゴイズム」は「自己の快楽を求める」ことであるのに対して、「悪意」は「他者の苦痛を求める」ことにあるのだそうだ。
他者を苦しめても、自分にとっては何らの利益にもならない。にもかかわらず、悪意を持つのは単に悪意の衝動に駆られているからだという。
エゴイズムは人間以外にも、多くの動物にあるようだけれど、悪意は人間特有の感情だという。
ショーペンハウアーは、悪意は本人の性格に由来するから、死ぬまで一生、悪意を持ち続けて生きるしかなく矯正はできないという。
ただし、頭の中だけの悪意ならば、理性で押しとどめられるレベルの悪意もある。
自分が美しいものが好きだとして、美しい人がいれば、その美しさは称賛に値するはずであるが、美しいものが好きなだけに、それを具備している人に悪意を抱くとするなら、自己内で矛盾が生まれている。
「嫉妬」なども「悪意」の原点を形成することがある。
ようは、悪意が性格に基づくものだという仮定を是とするなら、悪意を抑え込むためには理性を高める以外にないことになる。
しかし、「悪意」が感情・情動に根付いているとしても、価値観とも大きく関係しているようにも思える。価値観は決して生まれつきではないはずであるから、やはり、情動と境遇(環境)と価値観によって邪悪さの度合いに少なからず影響を及ぼすのだろう。
ということは、すべからく国民が豊かで、理智的な境遇に育ちさえすれば、邪悪さはおおよそ押さえつけることができそうだ。
闇バイトなども、運営する側には同等な「悪意」があるようだけれど、闇バイトで犯罪を実行する人たちには、犯行に対する強い願望があるようにも思えない。つまりは、経済を含む社会の形成にも、少なからず問題を抱えていると言わなければならない。
30年も成長しない社会というのは単に経済だけのことではなく、倫理観においても成長ができていないことになる。政権与党の議員は、平然と裏金をがっぽり手にしても、検察も国税もお咎めすらしないことにも如実に表れている。