リハック旅に「東金」登場

石丸伸二が旅する「リハック旅」に東金が登場した。

ついでに「東金」を少し調べてみた。名前の由来は「鴇(とき)が根」に由来するといわれ、そこから「東金」になったらしいとのこと。

「東金城は往古上総介の属館なりしが後年千葉氏の支城となりて鴇ヶ嶺城と云う。後東鐘城と唱へまた鴇ヶ根城と号す。大永元年(1521)東金城と改称せり」とwikiに書かれている。

1614年(慶長19年)徳川家康がはじめて同地を訪れた折から東金町と称したとされている。家康は何しに来たのかというと、「鷹狩り」だった。そこで御殿を作り、その前にあった池を拡張して現在の「八鶴湖」になっている。

ようは、現在の東金の八鶴湖あたりで鷹狩りをしに来ていたということ。たしか、秀忠、家光も東金に鷹狩りしに来ていたと何かで読んだことがあります。

すごいのは、家康が東金に来るために千葉から東金までの道を造っていることです。それはいまでも「御成街道」と呼ばれています。家康が土居利勝に命じて作らせたそうです。

東金に就く手前に千葉市の御殿町というのがありますが、ここに御殿を作って泊ったようです。御成街道は、近在の小学校だったか中学校だったかで、どうやってまっすぐな道を造ったかの測量技術を模した研究レポートを見たことがあります。

御殿跡として史跡に指定されていますが、四角く切り抜かれた空間があるだけですが、そこに行くと400年前に、この場所に家康や配下の武将や女中たちが家康のもてなしのために活動をしていたんだと想像すると、感慨深いものがあります。

東金高校のあたりに宿泊所「東金御殿」を築造し、御殿からの眺望をよくするために中心にあった池を広げたそうで、それが現在の「八鶴湖」だそうです。

この湖の湖畔に、かつての料亭があり、そこに芸者さんが石丸伸二さんを出迎えて、いろいろ説明をしてくれました。かつては、九十九里浜でイワシ漁でお大尽になった旦那衆が、この料亭で芸者をあげて遊んだそうです。若衆は、そのようなお大尽になろうと頑張ったそうです。

ただ、石丸さんは「古いから残そう」としても大方は破綻する。使われ方を考える必要が不可欠だと指摘しています。歴史が、伝統がと言ったところで、それはお金を産まない。となれば、公共の負担で賄う以外にないわけです。

石丸一行は、東金から白子町へ移動します。白子町の病院が次なる訪問先になりますが、人口減少で民間の病院が継続できるかですが、いずれ限界がくることは必至です。それは、工夫や努力でどうにかできることではありません。

地域の中で中規模病院に集約していかなければ、いまのような個人医院だらけのようなことは持続するはずもありません。まして、過疎なら当然の帰結です。

行政が企業誘致のようなことをしない限り、行政自体の存立も危ぶまれてくるのも時間の問題になりつつあるわけで、まだ、その崩壊の音はささやかですが、いずれ大きな音を立てて崩壊していくことでしょう。

その前に打てる手としては、他の自治体から若者を引き抜いてくることになります。そのためには、まず「仕事」と「学校」と「エンタメ」「アミューズ」「社交の場」で旗を揚げることが首長の腕の見せ所になります。