「米欧回覧実記」から見えること《その1》
時は明治4年。樋口一葉が誕生した年でもある。フルベッキの権限に従って大隈重信(条約改定御用掛)による遣欧米使節団の計画が太政大臣三条実美の指示のもとに進められていたが、岩倉使節団に切り替えられた。その背景として薩長閥の反大隈の動きがでてきたことが挙げられている。
三条実美を太政大臣にし、岩倉が右大臣。参議には薩から西郷、長の木戸、土の板垣、肥の大隈とそれぞれ1名ずつが配置された。
大久保が卿(長官)の地位にいた大蔵省の権限が強大すぎて大蔵省権限をめぐる派閥対立から不測の弊が起きるかもしれない可能性も出ており、さらには大隈が外遊に出れば外政の主導権を握られてしまう。
そこで木戸と大久保が洋行するのが最良の策だとなって三条を説得した。大隈にとってみればその間に改革することがたやすくなるという読みもあった。と言うのは西郷も板垣も、藩内での政治には力があっても新たな政権に対しては通暁するには及んでいないから大隈が実質的な実験を握ることができると考えた。
明治4年の時点における日本国政府の中では、派閥抗争が熾烈になり、日本国内には政府に対する不平士族の不満が欝積していた。しかし、これからの日本の近代化のためには木戸と大久保が欧米を体験し先進国を見聞することが、どうしても必要であったということになる。
随行員含めて研究のポイントとして「制度・法律」「理財会計」「教育制度」、その他として「軍制」の監察に分担を与えている。
ここで登場するのが久米邦武と言う人物。彼は佐賀藩主鍋島閑叟の側近で閑叟が岩倉に推挙したことで随員となった。久米邦武と言う人物を知るうえで水戸学の過度に道徳主義的な考えを排斥し、かつ、神道は宗教ではなく祭典の古俗としたことで大騒ぎになるが、ここに久米の人物の姿勢を知ることができる。
さて、実際にアメリカを見聞して彼らが考え、感じたことは《その2》以降に記す。