沈黙の螺旋

なんだか映画のタイトルのようである。1966年にドイツの政治学者が提唱した政治学とマスコミュニケーションにおける仮説だそうだ。

この仮説は、人間には孤立することへの恐怖があること。周囲を観察し、その意見の動向を把握する準統計能力が存在するという仮定の下に、少数派・劣勢だと自覚している人は、多数派からの反対や孤立を恐れて自分の意見を表に出しづらくなることを想定している

どの意見が多数派か少数派であるかをマスメディアが持続的に提示することで、多数派の声は無根拠に大きくなり、少数派は無根拠に沈黙へと向かう。この循環過程によって公的な表明や沈黙が螺旋状に増大し、世論の収斂が起こる。

例えば、東京都知事選で、ネットの世界では結構な話題になった「石丸伸二」という名前が、実際に選挙をしたらゼロ打ち(開票率0パーセントでの決着)で小池百合子が勝ったのは、別に「沈黙の螺旋」という作用が働いたわけではなかった。

マスメディアの影響と、人々の価値観の「慣性力」を破壊するのには、ネットの影響力はまだまだ微力であることを如実に示した。

人間は世論に逆らおうとすることに苦痛を感じるという。人間には隔離されることへの恐怖があり、ある意見を口にすれば多数派から拒絶されるであろうことを知っているという前提があるとしているが、少し的が外れている気がする。

それは村八分のような集団ファシズムや戦前日本やドイツのような、権力による弾圧が前提となる気がする。

「他者の意見を推測するためにマスメディアを用いる」「他者志向の強い個人の想定が社会認識として共有されている」ともいうけれど、これも的が外れていて、基本的には大衆は自己と直接的な関わりがないことには関心がなく、関心がないことを考える気もしない。

そうした「無思考」な人間が民主主義において半数前後いることを占拠をするたびに示している。そして、無思考な人間にあえて施行させる有効な手立てが「バラマキ」と「組織」になる。

むしろ、「沈黙の螺旋」を明確に示しているのはマーク・トゥエインの「不思議な少年」である。中世のヨーロッパが舞台で、主人公の少年が住む町で「魔女」が認定されると、みんなで押しかけて石をぶつけたり罵声を浴びせたりする。

そのことを、悪魔の少年が「君だって彼女が魔女だなんて思っていないのに罵声を浴びせていたじゃないか」と指摘する場面がある。「だって、そうしなければ僕がみんなから非難されてしまう」。

これが「沈黙の螺旋」の原動力となる。「村八分」や「隣組」という、自発的監視社会や「密告」のようなことから思考が停止していく、あるいは思考停止を加速させていく力こそが螺旋状に作用する社会にこそ、成立する概念だと考えられる。

wikiによれば、「沈黙の螺旋」を打開するために「悪魔の代弁者」(多数派にあえて反対する者)を用意することで、発想に自由度を加えさせることができ、閉塞感を打破できる可能性を共有できることもある。

都知事選で言うなら「石丸伸二」は「悪魔(←多数派にとっての)の代弁者」の役割を担ったが、彼の出現で無思考の慣性力を打破できるかは、大きくは今後のメディアの取り上げ方に依存する。

なぜなら、メディアの存在価値は、「無思考」な人たちにこそ有価値であり、「あたかもの思考結果(実は何も考えていない)」の刷り込みマシンであるからだ。