オーディオとか吟醸酒とか
20代のころ、秋葉原のオーディオショップに顔を出して店の人と話をしていたら、いつのまにかJBLのスタジオモニターを買う気になってしまった。
アンプはテクニクスのプリアンプとパワーアンプ。当時の所得からすれば、それなりの価格だった。
いっぱし、オーディオマニアを気取っていた。先輩がマッキントッシュのプリアンプを持っていて、それを借りて聴き比べをしたりしていた。すくなくとも、美しさで言えばマッキントッシュのほうが圧倒的だった。
そんな道楽のちょっと後に、銘酒屋で吟醸酒を飲みだした。そこの女将から、お酒の味の好みからして本当の酒飲みではないといわれた。つまりは、淡麗淡泊なお酒を好んでいたからであった。お酒には、それぞれ主張があり、それを愛でなければつまらないじゃないかということだったと思う。
オーディオマニアも忘却し、銘酒好みも忘却し、場末の居酒屋でおだを上げるような年頃になったころ、居酒屋のおやじに「辛口がいい」といったら、「人生の甘いも酸いも分からないくせに」と軽くいなされた。当時の日本酒は、異様に甘かったのは「糖」を入れていたからでもあった。
いまとなれば辛口の酒なんて、飲みたくもない。
この年になって思うのは、オーディオなんて、2、3万のコンポーネントで十分。音楽が流れていればいい。どのみち生の音に適うはずもないたかなんて、およそ重要なことではない。演奏が下手でなくて録音がよければ、問題は「曲」に尽きる。
お酒も同様で、かつては吟醸酒をえらそうに飲んでいたのが、いまとなれば1升2千円くらいの普通のお酒で十分な境地になっている。そもそも、お燗をしてはいけない酒なんて、飲む気もしない。
グラスで飲む酒なんて飲む気もしない。お銚子とお猪口で、刺しつ刺されつつ気が付いたらろれつが回っていないような「飲み方」が酒を飲む醍醐味と思っている。
懐具合が貧しくなっているからでもあるけれど、ようやく、野に咲く野草や、そこいらを飛び回る野鳥のさえずりが、心地よい年ごろになってきた。貧しいからこそわかる境地もあることは富者・強者にはきっと破綻するまではわからないだろうと、強がりを言ってみる。
とはいえ、兵庫県内でしか売っていない菊正宗の純米大吟醸無濾過4合瓶を、兵庫に出張した知人からもらっていて1月13日の新年会で酒好きと飲むことになっている。
荘子は、矛盾をそのまま受け入れろといっている。そういうことを言う荘子が大好きである。
オーディオにしろ、お酒にしろ「高かろううまかろう」は、高いのだから「うまい・よい」のは当たり前のことである。当たり前としては「安かろう・まずかろう」と次元は同じである。醍醐味は、「安かろう・うまかろう」に尽きると言える。
世には、「高かろうが凡庸」であることが多すぎるように思えるが、そうしたモノやサービスが氾濫するのも、提供者の責任よりは、凡庸な消費者の責任に帰することが多いと思う。
考えてみれば米を50%以上削るなんて極悪な邪道であって、酒は飲んで酔えばいいだけの飲み物であることを忘れるのは邪の道を歩んでいる。
花間(かかん)一壷(いっこ)の酒
独り酌(く)んで相親しむもの無し
杯を挙げて名月を邀(むか)え
影に対して三人と成る
「影」は自分の影。月が皓皓と照って地面にくっきり自分の影が。ああ、これで自分は一人ではない。影に向かえば、自分と月と三人になった という境地のようです。